上級国民という言葉が何故使われたのか。
10年ほど前に階層社会という言葉が出現し、定着した。社会が階層化し始めているという指摘が、いかにもこの社会を表しているかのようだった。そして、池袋暴走事故以来上級国民という言葉が使われるようになった。これはかなり嫌な印象があることばだ。
階層社会と言う言葉が使われ出した際、階級社会というものを階層という言葉で曖昧にしてはならないということが指摘された。学問用語的に言えば、その通りではあったのだが、階級社会という古い概念ではそのとき起きていた社会の階層化状態が表しきれなかったきがする。階級という言葉は余りに概念的で、生活実感が薄くなっている。
階層社会とは競争主義が生み出した社会という印象である。競争で勝ち抜いたものが、上の階層にたどり着ける。競争に敗れたものは下層で甘んじるほかない。こうした競争の結果生まれた生活水準の層のようなものが、階層という言葉で表された。階級と言う言葉が定義した、資本のあるなしで分けると言うことを曖昧にした。
そこにはどことなく能力競争に負けたのだから、仕方が無いだろうという空気感を含んでいた。いかにも能力競争が正当なもので、誰にも加われるもののような印象を与えていた。そんなはずは無かった。競争はスタート地点がそもそも違っていた。
そこで現われたのが上級国民という言葉である。上級国民と言う言葉には、貴族階級というような持って生まれた所属を感じさせるものがある。アベ氏などがその典型例である。能力競争でいえば、出身大学も一流というわけでは無い。上級官僚出身でもない。アベ氏は周りが作り上げた存在という意味が強いだろう。
そういう、生まれで地位が約束されたような社会になり始めているという予兆が上級国民という怖い言葉で表現された。上級国民と呼ばれたのは、池袋でとんでもない暴走事故を起こした、元官僚である。この人が逮捕されない。過去の功績が配慮されて、情状酌量されるのでは無いかといわれた。
法律の前でそんな馬鹿なことがあっていいはずが無いという、庶民の気持が、上級国民という言葉による告発になったのだろう。厳罰を求める署名が石垣島でも行われている。亡くなられた親子が、沖縄出身の方と言うことがある。
競争が平等では無いという、鬱屈した想いも社会全体に溜まってきている。この平等では無いには、学力競争自体が、地域格差が生じていると言うこともある。家庭の経済が競争に反映しているとデータに表れている。どうも競争が平等という事に、疑問が生まれている気がする。
また、競争が拝金主義に偏重しているのでは無いか。社会の中で大切なものとするべき仕事が、拝金主義でおかしくなっているのでは無いか。例えば、稲作農業は大切な仕事ではあるが、世界経済の中でないがしろにされてしまうのもやむ得ないだろうと言うことになった。
伝統文化を支える工芸なども、生活すること自体ができなくなっている。そのために、日に日に失われている。芸術分野でもお金になる芸術とならない芸術が存在する。純粋に文化としてそのものの価値をみるという社会では無くなっている。
こうして、社会が経済によって固定化がされ始めた。それは資本主義社会が進めばそうなる。資本を持つものは資本が利潤を生み、より大きくなって行く。一方で、資本のないものは労働価値で量られ、労働者の立場に固定化されて行く。
すでに、特殊例を除いて、なかなかこの状況を乗り越えることが難しくなった。それほど富が偏在するようになっている。それがまるで、貴族社会の到来のように、上級国民という言葉に表されたのでは無いだろうか。
上級国民の世界には上級国民以外は立ち入れない。生まれたときから立場で、生涯の姿が決定されているのでは無いか。この恐怖である。もう努力も能力もさしたる意味が無くなっているのかもしれない。というような気持がにじみ出ている。
もちろんそんなことは無い。よりよく生きることは誰にでも可能である。経済的競争に入り込むことは極めて困難になっていると言うことだ。社会では経済的成功だけが目標の人がばかりだから、そういう意味の絶望感が広がっているのだろう。
よりよく生きることがお金などと全く関係がないものだ。よりよい養鶏も、よりよい稲作も、よりよい絵画も、お金とは関係が無い。お金で測る尺度など捨てればいいだけのことである。拝金主義に自分の一生を台無しにしてはならない。
時代のゆがみが、まともな養鶏を許さなくなっている。当たり前の稲作を許さなくなっている。私のやってきたような、農業は貧乏農業と切り捨てられる時代なのだ。しかし、切り捨てて、経済的成功を目指す農業に価値があるとは私には思えない。
どちらに生きるか方向を決めるのは自分である。上級国民などと関係なく生きる方がいい。