八重山民謡、金城弘美さん

   


 石垣にはゆう暮れコンサートというものがある。街角で音楽を楽しもうというものだ。以前桃林寺境内で行われたコンサートを、旅行に来て聴かせていただいた。こんなコンサートが行われる町に住みたいと思ったことも、引っ越してくるきっかけになった。

 八重山民謡は音楽性が素晴らしいとともに、地域文化として優れている。音楽性が高いと言うことは、西洋音楽的な意味の人間哲学が深いと言うことがある。バッハのような深い思想がある音楽と同等な八重山の哲学を感じる。

 八重山民謡の奥ゆかしいというところがいい。抑制された、深さを感じる。つらい苦しい生活の奥にある人間の生命賛歌を唄うにしている。人を責めるより日々の楽しさの中に宗教姓とでも言うような無限を喜びとして唄う。

 それは唄い方にも表れている。音の高さはそれぞれの人の持ち味でかまわない。低い声の人は低音で、より高音で唄いたい人も居てかまわない。その人がしゃべるように唄うことが、良いのだといわれる。

 その点津軽民謡などと対極にあるものでは無いだろうか。津軽民謡は人をあっと言わせないとならないらしい。津軽三味線には過去に無い新しさが求められるという。人が出せないような、息の長さや、高い音程などが求められる。八重山民謡は本筋に入るほど、普通のものになってゆくすごさなのだ。それをオンフールがあると言うらしいが、まだ意味がつかめない。

 唄を聴くとは、その人の人となりを聞くものなのであろう。大工哲弘さんという素晴らしい唄者がいる。現代八重山民謡の頂点に立たれる方だ。この人が唄うと「沖縄を返せ」さえ感動を呼ぶ唄になると言われる。何を唄おうとも、大工さんの人間の方が先に来るのだ。

 金城弘美さんという方のコンサートを初めて聴いた。女性の方でこれほどの唄者は初めてである。何を唄おうともどこまでも金城さんなのだ。これはありそうで滅多に無い。多分「沖縄を返せ」を唄ったとしても感動してしまうだろう。それくらい人間が出ている。

 自然に唄う。しゃべるように唄うと言うことである。人の話し声は、一番にその人が出てくるものなのだ。よくラジオの方が、テレビより人間が分かると言われる。人間の声というものは、かなりのものまでさらけ出してしまうのだ。

 ところが、西洋音楽であれば、その人であるよりも音楽の理想に近づくと言うことが求められるのでは無いだろうか。バッハがすごいのであって、演奏家はバッハのすごさを表現している。作曲家の意図に近づくように歌うと言うことでは無いか。場合によってはっ自分と言う個性も抑えるのでは無いか。

 八重山民謡ではその人の唄い方で良いというトゥーラバーマのような唄まであるのだ。しゃべるように唄う事ができるためには、実はその下地として、徹底した基本というものがあるのだと思う。

 金城さんは17歳で八重山古典民謡最優秀賞受賞。平成12年度とぅばら~ま大会最優秀賞受賞。こういう方は滅多に居ない逸材である。基本が完全にできている人だ。その上で、もう一段抜けたのだ。それが普通に唄う世界だったのでは無いか。

 八重山高校でビギンの人たちや大島さんなどと同級のようだ。この前後にはすごい人たちが続出した。そしてその後に素晴らしい唄者が続いて行くことになる。

 何故その人であることがそれほど大切であるかと言えば、八重山民謡は人間の表現だからだ。作者を超え、八重山にくらす人の唄になっている。原初的な声というものを通して、その人の何かを伝える手段として、現代に生きている。全く希有な音楽なのだと思う。

 絵画が表現としての力を失い始めている中で、絵画の意味が、作者自身にあるという原点に戻っている。それは作者が見ている世界が表現されることだと考えている。そのためには徹底した技術が必要である。技術的な積み重ねが必要である。そして、その技術にとどまること無く、それを超えて、じぶんである素朴な世界に踏み出す必要があると考えている。

 誰でも描けるような手法で、身近な手法で、ありのままの自分が現れるように描くこと。誰もが塗れるような色で、誰もが引けるような線に戻ってゆく。八重山民謡の世界は私絵画の意味を再確認させてくれるものでもある。

 金城さんは、涙を流しながら、声を詰まらせて唄った唄があった。95歳になるオジーが亡くなったのだそうだ。突然唄の中にそのことが出現した。ああそれでもいいのだと思った。上手く唄えないことで伝わることがある。

 トゥーラバーマを唄われた。あまりの情感に陶酔した。すごいものである。この唄には掛け合いのような合いの手が入る。金城さんが会場に誰か唄うように誘うと、会場から男の声で合いの手が入る。これがまたいい。こんなことができるのは石垣ならではであろう。

 夕暮れコンサートは65回を数えるという。はじめて市民会館の中庭で行われた。ガジュマルの木の下で唄われた。夕風がここち良くガジュマルをゆらしていた。椅子は持ってきてよ。と言うコンサートである。石垣島で暮らす幸せを感じる夕暮れであった。



 

 

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