ジミー大西画伯の絵画撤退
石垣島で一番美しい場所。最近絵を描かして貰っている。
お笑い芸人をしていた、ジミー大西さんが絵を止めたそうだ。絵筆を折ると言うが、本当に筆を力ずくで折ったそうだ。私も油絵の具を捨てたことがあるから、その気持は分からないでは無い。そのくらいしなければ、捨てきれない物だ。
ジミー大西さんが絵を止めた理由は、時給計算をしてみたら、520円にしかならなかった事で、びっくりして止めたそうだ。なるほどと思うが、作った話かもしれない。絵が描けなくなった可能性がある。
テレビで仕事をして時給が何万円にもなる人にしてみれば、驚いたに違いない。売れるから絵描いていたと言うのも実にすっきりしている。タレントが絵を描くと名前でそこそこ売れるものだ。タレントで成功するくらいだから、売れる絵が何かはすぐに分かる。
絵が商品であると考えれば当たり前のことだが、売れている絵をまねるのである。その結果、売れてしまえばそれで目的に達したことになる。絵を描くことが、自分の生きると言えるほどに面白いことだという人は居ない。
鶴太郎さんも絵を描いていた。自分でも語っていたのだが、ものまね芸人だから、真似はすぐできるのだと言っていた。売れそうな絵の真似をしていたのだと思う。何しろ小田原駅には鶴太郎さんの巨大な陶板画が掲げられている。あの作品を恥ずかしいと思っている。ひどいことを言う奴だと思うのであれば、是非実物を見て貰いたい。
鶴太郎さんはしばらく前に絵が一変した。多分当人としたら、真似から脱したという意識であろう。前はヘタウマの真似であったが、今度は達者な絵の真似である。普通の絵描きがやっているものと似ている。余り面白いものではなくなっている。この先、一日1食生活の、鶴太郎さんの哲学に、絵がたどり着けるかどうかだろう。本当に絵を描いているのであれば、鶴太郎さんの哲学の問題になる。
芸能人の絵でもリアル絵画派が結構居る。うまさをたよりにする人がやはり多数派である。芸能人だから評価されていると言われるのが嫌いなのだろう。上手いと言うことはわかりやすい価値だから、うまさで自己証明しようとする。
芸術としての絵画が存在するとすれば、描かなければならないものは、作者の世界観だけだろう。その卓越した世界観が絵画という事物に乗り移るから、人は感銘を受ける。そうした芸術の目的を理解できる観衆がいなくなれば、芸術は成立しない。
現代社会には美術評論というものはなくなった。評論家を自称する人は居る。しかし、それは解説者であったり、コーディネーターであったりはするが、絵画芸術論を書くような人はまず見かけない。そういう冊子無くなった。ネットには絵画論はあるのだろうか。探しているが、今のところ見つからない。
季刊芸術が全冊残してある。こういうものが売られていた時代があった記憶である。芸術の奥底まで行こうという覚悟のある内容であった。1967年の創刊号の目次である。私が18歳の時だ。
・ | 志賀直哉論--「友情と肉親」 / 安岡章太郎/2~23 |
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・ 戯作と私小説--芸術の幻-1- / 中村光夫/72~81 -
・ 一族再会――母(1) / 江藤淳/p82~101 -
・ ストラヴィンスキー-1- / 遠山一行/104~112 -
・ 高橋由一--日本近代美術史ノート-1- / 高階秀爾/114~127,図巻頭1p,巻頭1p -
・ 音楽にある文学性(NHKラヂオ講演による) / 河上徹太郎/32~39 -
・ 明治の文学者の一経験 / 山本健吉/24~30 -
・ 音楽と日本の精神的風土 / 福田達夫/40~54 -
・ 眼の詩学--絵画を考える試み / 大岡信/56~70 -
・ 現代と芸術(シンポジウム) / 江藤淳/198~223 -
・ 「冷血」・その記録と芸術--カポーティの「冷血」 / 高村勝治/130~133 -
・ アメリカの夢と幻影--カポーティの「冷血」 / いいだもも/133~136 -
・ 思い出の中のカポーティ・ナルシストの殺人--カポーティの「冷血」 / 佐伯彰一/137~140 -
・ 絵画性への傾斜--第5回東京国際版画ビエンナーレ展 / 坂崎乙郎/143~146 -
・ 国際性と国民性--第5回東京国際版画ビエンナーレ展 / 高階秀爾/146~148 -
・ 武満の,音に対する思想--レコード「武満徹の音楽」 / 東野芳明/150~152 -
・ 感想文・「武満徹の音楽」を聴いて--レコード「武満徹の音楽」 / 三善晃/152~155 -
・ レコードの《エクリプス》--レコード「武満徹の音楽」 / 平島正郎/155~157 -
・ 待伏せ / 石原慎太郎/p184~195 -
・ 谷中清水町――失はれた町名への挽歌として / 円地文子/p160~170 -
・ 聖人絵 / 花田清輝/p172~182
表紙は横尾忠則氏や高松次郎氏が描いていた。ずいぶん本を廃棄したのだが、この冊子だけはまだ残してある。若い頃こういうものを読みながら、絵を描いていたわけだ。捨てることができないのは、自己確認というか、戒めというか。そういうことである。
70年安保闘争。大学闘争。そういう時代の中でこういう冊子が作られていた。そんなこと全体が、無かったかのような状況だ。次の時代に何も残せない団塊の世代の一人である。申し訳の無い気持になる。
絵というものの世界が全く変わってしまった。幻想として存在していた、芸術というものが、すっかり商品絵画という現実に流された。ジミー大西さんのように、時給で計算してしまう方が、むしろすっきりしている。
多分社会は絵画芸術が変わったと言うことにすら、気づいていないのだろう。商品の付加価値として、芸術として置いた方がいいと言うことに市議無い。まあ、絵画が衰退したと言うことぐらいなら、たいしたことでは無い。社会全体が、拝金主義に覆い尽くされた。そのことにすら気づかないことになっている。
確かに50年たち世界は変貌した。季刊芸術のような雑誌が普通の書店に並んでいた時代があったのだ。三宿の小さな古本屋さんで季刊芸術を買っていた。この本屋さんにはかならず、一ヶ月後にこの本が並んだ。どういう人だったのかと思う。