愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」

   

 愛知トリエンナーレは中止になった。正確には従軍慰安婦少女像の展示が中止になった。表現の不自由展が中止になったと言うことで、表現の不自由の意味が、社会的に認識されたことだろう。従軍慰安婦を表現する少女像が、日韓経済戦争の中で展示されることに対して、いわゆる炎上をした。
 暴力的にこの展覧を中止しろと言う脅しが多数あった。こちらはどちらかというと、昭和天皇の写真を燃やす映像が流されていたと言うことが、引き金になったのだろう。その後天皇に関しては、報道は無視。忖度が働いている。本当は少女像よりもこっちが脅しの標的。
 表現は自由なものでは無い。表現は様々な形で社会からは制限されている。そもそもそういうものだ。映画では猥褻なものは制限されている。猥褻と芸術性とはいつも問題になるところではあるが。
 まさにこの表現の不自由の問題は、こういう形で全うされたわけだ。主催者の意図とは違う結果であるが、主催者がこの結果を想像できないはずも無いから、ここまでをひとつのパフォーマンスとして考えた可能性はある。全体が現代芸術という意味が表現している。
 私たち水彩人が行う展覧会場の東京都美術館でも展示拒否が問題になったことがある。政権を批判した立体作品の展示が拒否された。
東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めた。撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70)の作品「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種」美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌十六日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。ー―東京新聞(2014年)
 
 このとき個人として抗議文を東京都に出した。本来であれば、東京都美術館で作品展示をしている人はすべからく、抗議しなければならない問題であった。しかし抗議をした団体は無かった。たぶん、抗議することによって、差別を受けるのでは無いかという忖度である。あるいは、政権支持の人たちであろう。
 表現の自由もある。見ない自由もある。悲惨な殺人死体を見たくないというのに、見ざる得ない裁判員と言うこともある。見たことによってトラウマになったという人も居る。
 資本主義社会最終段階にある、現状では芸術というものも商品としての側面で判断される場面がほとんどである。アメリカで高く売れたから良い作品であるというような判断が普通だ。
 銀座の画廊では、売れない作品には展示の自由は無い。もちろん自腹を切って展示するのは自由である。経済性があるかという価値基準は、いつの時代でも芸術をゆがめている。
 表現の不自由ということを、現代美術の問題として取り上げるなら、商品としての芸術という意味を問うべきだと思う。政治的表現という意味より、現代という時代の切り口は経済である。少女像が問題になっての、報復処置が輸出制限である。
 商品として評価されていた作品がどのように暴落したかとか。どういう社会ではどういう商品絵画が評価されたかとか。では現代日本ではどうなっているか。現代美術の商品性の見苦しさはちょっとひどいものがある。
 愛知トリエンナーレという公な場所には自由は無い。そして、現代社会にも、政治的表現には自由は無い。このことははっきりとした。
 
 自分の作品はそんなこととは関係も無いからどうでもいいという、芸術家的な人が大半だろう。関係の無いような作品は本当は無いのだ。社会と関係の無いような作品しか生まれない時代なのだ。すでに、絵画は社会性を失っている。
 不自由な作品のほとんどが、立体であり、映像である。絵画で撤去しろなどと言われるようなものはまずない。絵画というものは2次的なものなのだ。2次的なものの持つ本当の力は萎えている。それを見抜く解釈者がいて初めて本当の力が成立する。
 この表現の不自由展は芸術というものが、商品化されてしまった時代にあって、現代美術に目を集めようという、アイデアである。目を引きすぎて、中止にはなったが、意図は成功したと言うことになった。
 良くも開催まで持ち込んだと思う。これで展覧会をバックアップした行政の人間、美術館関係者を処分するなどと言うことは、止して貰いたい。そういうことをするから萎縮し、忖度人間だけになるのだ。
 展示の中止は間違えである。美術館という場はそういう場である。日本大使館の前に置くと言うことは間違えである。しかし、世界中どこの美術館に飾ろうと何の問題も無い。美術館という場はそういう無色透明の治外法権で無ければならない。
 美術館というものは作品を販売する場でも無い。作品を展示する場だ。最近団体によっては作品の販売をするところもままある。資本主義の泥沼に落ち込み、作品と商品の違いすら分からない作家も多くなっている。

 - 水彩画