石垣島、宮良川上流部を描く

   

 宮良川上中流域には魅力的な田んぼが連続している。この写真のさらに上流には素晴らしい田んぼがまとまった場所が2カ所ある。その上に自衛隊基地を作っている。瑞穂の国、美しい日本はどこへゆくのか。
 
 この写真で、石垣の風景は影が違うと言うことが分かってもらえるだろうか。これは朝だからまだ影がある。昼頃になると、角度によっては全く影がなくなる。陰影で描いている人であれば、描けないかもしれない。私の絵は影というものとはほとんど関係がないようだ。陰だと思って描いたことは無いような気がする。
 多分ものの量と言うことに関心がないのだろう。表面性にひかれて描く。それはものの意味と言うことも、意識していないと言うことではなかろうか。そこにある空間。渦巻く色が意味をなくして眼に入ってくる。
 田んぼという意味はほとんどどうでもいい。田んぼという大きな水面が、複雑な反射をする。そのことによって、空間が動き出す。この動きに惹きつけられる。だから、同じ場所でも、水面が見えなくなると、余り惹きつけられなくなる。
 川を良く描くのも同じ事である。川に反射して光が動き出す。もちろん、どの色彩も太陽光を反射していろとなっているのだが、水面というものは透明であり、鏡である。他の場所よりも大きな光の動きを作る。
 こんな状態で描いている。遮光のシートを屋根の上に止めてある。これだと車の中がいくらか涼しくなる。風があれば、暑いと言うことはまずない。車には温度計があるのだが、大体31度くらいだ。と言って先日33,5度まで上がり、どうなるかと心配になった。
 絵を描いていると、他のことは考えられなくなるから、コーヒーだけは飲みながら描いている。朝、まず通り道のファミマによる。ここで、カフェラテホットを2杯を買う。保温のボトルに直接入れさせて貰う。午前中暖かいまま飲める。
 毎日午前中は必ず描いている。午後まで描く日もある。朝8時過ぎから描いている。これ以上描くとおかしな事をやり始めると言うときが、その日の描くの終わるときである。
 最初の写真の場所である。何故こうなるのかは分からないが、ただただ、見て描いている。描いているときは何がおかしいから、絵にならないのかと言うことが頭の中を巡っている。
 そう思ってあれこれ描くようだ。ああこれがいけないのだと思う。すべては絵の方向の問題なのではないか。方向を完全に把握していないから、どこにゆくのか分からなくなるようだ。
 それでも今はあきらめないで描くようにしている。ダメはダメでも、完全にダメになるまで描く。だから、同じ絵を続けて描くことが多くなった。3日、場合によってはその後また持ち出して描いている。
 とことん描いても余り暗くならないようになったことが大きい。これは最近獲得した技術的成果だ。何十年も描き続けていて、やっと獲得した技術が毎日ある。白の使い方などもそうだ。やっと分かってきた。白はメーカーによってまるで違う事も分かった。
 同じ絵の描き出しである。ここから大きく変わったのは、空の部分である。そもそも空はこの景色にはない。無いのだが、空というものは描いている上はすべて空である。空が地面に反映している。
 緑の草も、畑の赤土も、空からの光の反射であると言う当たり前のことが、空間の動きに影響している。だから、水面というものが、特別に見える。それは、川でも、田んぼでも違いは少ない。これが海だと、少し違う。空だと反射が無いようで何か違う。
 この絵は中盤全紙で、ファブリアーノの手漉き紙である。30年前くらいの古い紙だ。作りたては描けないほど描きにくかったのだが、今はとても描きやすい紙になっている。
 このあと、30号でも描いている。ファブリアーノのロール紙である。大きさを変えると、色というものはまるで違ってくる。紙の目の違いもある。
昨日、おとといと描いたものが、左から3番目の立て絵。今日もこの絵を描くつもりだ。
 
 

 - 水彩画