木村忠太と言う人が居た。「絵画は、色であり同時に事物である」
水彩画を色を使って描いている。当たり前のことのようだが、重要なことだと思う。色は黄色であれば、黄色という音符のように使っている。黄色の花と考えるときもあれば、黄色の点だと思って描くときもある。この行き来が絵を描くという行為特徴なのだと思う。
色の組み合わせで作品を作ってゆく。その色彩は楽譜のように組み立てられてゆく。描かれた色彩は抽象的なものである。ところがその色彩が事物の意味を持つこともできる。この微妙な加減がなんとも言えない魅力だ。
色の楽譜は共通の仕組みがあるわけでは無く、描く私が探しながら、作り上げている記号でできている。西洋音楽であれば、楽譜でかなりの部分まで表現されていて、決定的な違いまでは無い。それでも解釈というものでかなり違う音楽として演奏されることもある。
陰なのか、ネコなのか。そこに必要な黒なのか。その融通無碍な感じがいい。木に見えてもいいし、それが建物であっても差し支えない。その画面の中で必要な場所に必要な色が置かれればいい。そこにものとしての意味がどう加わるかである。
だからこそ、その色の置かれる調子というものが重要になる。水彩画の良いところは、水の濃度で表情に幅があると言うところだ。書や水墨画であれば、濃淡と筆の表情だけで描くことになる。水の濃度で表現される世界までもが変わる。この微妙な透明性こそ、東洋的表現なのだと思う。
水墨画に色彩が加わることで、世界が解放の方向に向かう。解放の方向とは、自由になると言うことである。あるいはでたらめが出来るでもいいかもしれない。どうとでも解釈できる、意味の多様な世界になる。作者にも把握しきれない、理解できていないような不可解な世界を、不可解のまま表現することが可能かに見える。
若い頃には木村忠太氏のそういう作風に魅力を感じていた。「魂の印象画」と名乗っていた。南仏のあふれる光を東洋の精神で表現している。と私自身思った。しかし、だんだんその油彩画の曖昧さを拒絶する手法に、かえって精神の奥行きのなさを感じるようになる。
何故木村忠太は水彩画を描かなかったのかと思う。きっと、出会わなかったのだろう。油彩画よりも、むしろクレパスや鉛筆の素描的表現の方が良いと思う。精神世界を光に反応することよって表現しようというのであれば、水彩画の方が可能性がある。水墨画的な精神的世界観と、西洋画としての論理的な哲学のようなものが出会うところが、水彩画だと思う。
私はその方向を私絵画と呼んでいる。私の絵を見ればそれが分かる。と言いたいが、実はそれは目指しているというにすぎない。まだ実現できていない。と言っても精神と言うような高みのような言葉は使いたくない。自分に近づくと言うことに過ぎない。
描かれたものが、事物の意味を伴うと言うことは、説明を伴うと言うことだ。川であるという意味を説明する。そのことは私の絵を描きたい思いとは関係の無いことなのだ。空である。海であろうとも絵においては、主たる事では無い。
木村忠太は光の空間を走る輝きを追い求めた。純粋にそのことを追うためには、事物の意味が邪魔をした。その意味との加減が木村忠太の到達した、具象と抽象の境目のような絵になる。
絵というものはその人間の限界までで終わる。見えていないものを描くことはできない。見えていないものを見えているかのごとく描くためには、他人の作り出した絵を借りてくることになる。それは、私絵画とは全く関係の無い世界になる。
自分の見ているものだけを頼りに、絵というもののの概念を捨てる。どうなろうと、それが通俗であろうと、あるいは狂気であろうと。自分が見ている世界に向かう。私がつまらないものであれば、絵もつまらないものでなければならない。自分に行き着けばそれでいい。