引きこもり100万の社会

      2019/06/24

 
日本には100万人の引きこもりの人が居るそうだ。一〇〇人に1人というのは多いのか少ないのか。多分普通のことだろう。100人に一人で考えれば、どんな人だって居る。3%理論というのがあって、3%以下であれば普通のことと言われる。どこの国にもあることなのだろうか。日本国の特殊事情ではなかろうか、そんな気がしていた。調べれば先進国ではごく一般的なことらしい。むしろ、3,6%位居るという国もあった。産業革命の早かった、イギリスがニート発祥の地と言う指摘もあった。違いは日本では問題として捉えられているが、アメリカやヨーロッパでは人間の一つのタイプとして、ある程度受け入れられていて、あまり騒がれては居ないと言うことらしい。少し想像のできるフランスのことで考えてみると、個人主義的傾向が強いから、他人のことはあまり問題にしないと言うことがある。人は人、自分は自分で考えて居る。引きこもっている人は引きこもる自分を個性として捉えているのかもしれない。と言っても引きこもりという枠で一〇〇万人を考えるのは間違えだろう。様々であるにちがいないから、ひとつの断面から考えないほうがいい。
 
引きこもる原因が身体的病気が原因することもあれば、精神的病気もある。外に働きに出ないですむのであれば、家に居た方が楽だからという人も居るだろう。引きこもりの人が自殺をするときに、周りを巻き込んで死のうというので、小学生や外務省の方が殺された。とんでもない事件が起きて、引きこもりがクローズアップされた。以前秋葉原で企業で廃人化した人間が、同じような事件を起こした。そのときはブラック企業で異常性格者になったというようなことで、これも企業の非人間的労働環境が問題になった。何かあれば原因を知りたくなるのは人の常である。理由が分からないと世相が不安定化する。そうだったのかと腑に落ちて、忘れる。犯罪というようなものは、原因が分かったところで解決はしない。たいていの場合その原因が、解決できるものではないからだ。つまり、1%の人はどのような環境においても登場する。仕方がないとして受け入れるほかない。
 
これから社会は厳しい時代を迎える。私たち団塊の世代が悪かったのだ。第2次世界大戦後の理想主義の探求は終わろうとしている。強いものが勝つのが当たり前の時代になってきた。日本の社会は余裕を失うことだろう。3%の人が切り捨てられることが迫っている。昔は引きこもりなど居なかったというのは嘘だ。明治以降の富国強兵という国家の論理で切り捨てられたのだ。無理矢理軍隊に連れて行かれたかもしれない。強制される社会ならば、否応なしである。それの方がいいとは到底思えない。社会には必ず、3%の違う人が居る。違うと言うことを認めて、受け入れること。排除しない。役に立たないというのは、自分の役に立たないと言うことである。社会の役に立たないというのは、あくまで自分の考える社会のである。自分に理解できないからと言って、人間存在はすべて同じである。どこかで折り合いを見つけるしかない。折り合いは難しい。両者にとって不十分だからだ。
 
ここが知恵の出しどころではないか。引きこもる人でもできる仕事が必要だろう。家から出ないでもできる仕事。社会がそういう仕事を作り出し。提供してゆく。農業分野でも、人と関わらないでもできるものもある。企業も一%の人への仕事の提供を考えるべきだ。誰もがほんの少しの気持ちを寄せることで、解決できるところもある。引きこもりをしている人は問題があるから、直すと言うことより、引きこもっていても社会の一員である社会を作ることだろう。普通の人間というものが求められすぎる。普通など実はない。社会が変われば、今普通人間がおかしいのかもしれない。多様であることを受け入れることのできる社会の方が生きやすいに決まっている。多数派は少数派を異端として押しつぶそうとする。それはあくまで多数派の自己正当化である。
 
 
 
 

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