イノシシにワクチンは馬鹿げている。

   

放牧され、そこにある草で生活している牛。

豚コレラが野生のイノシシからの感染ということがわかった。そこで野生のイノシシにワクチンを与えることになった。餌にワクチンを仕込み、土に埋めておき食べさせる。豚コレラワクチンで免疫力をつけようという計画である。この方法で、すべてのイノシシに免疫が可能とは思えない。日本中のすべてのイノシシが食べるとは到底思えない。ただ、一つわかることは、鳥インフルエンザの感染が起きたときには、野生の鳥すべてにワクチン打つのかということになる。私が主張してきたように、養鶏場の鳥だけの問題ではないということになる。豚については認めたということだ。これはワクチンを信仰するえせ科学とおなじことになる。ワクチン餌を一度食べたからといって必ず免疫が完全になるとはいえない。中途半端なワクチンでどのようなことが起こるのか、これもわかっていない。すべてのイノシシが免疫ができる状態が作り出せるほど、餌を与えるとすれば、イノシシの餌付けである。駆除した方がましだ。ほかの動物への影響はないことははっきりしているのだろうか。こんな自然を無視したやり方は、自然に新たな問題を生じる。

こんな方法に前例が成功したのかどうかはわからない。これから前例のあるヨーロッパを調査しようということである。10年間かかって、豚コレラに一定の効果があったららしいとしているが、ワクチンの効果なのかどうかは明確ではない。10年すれば、イノシシの方も変わっている。岐阜県ではワクチンを使う地域を柵で閉じたという、そこに年6回ほど餌を埋めるという。柵で閉じたという意味がわからない、柵の外のイノシシには感染が広がっていないという確認はできない。その柵というものはどう考えても狭い範囲で、しかも不十分なものに違いない。感染経路が確定されたわけではない中で、一部のイノシシにワクチン餌を食べさせたとしても無意味なことだ。無意味なことだ。わかっていながら、こんなおかしなことをやろうという理由を考えてみたい。養豚業者がワクチンを使いたいという要望がある。しかし、禁止である。何か対策をしない訳にはゆかない。こうした非科学的な考え方から、放牧養豚が禁止になる。徹底した衛生管理ということで、豚が消毒薬まみれになるだろう。豚コレラよりもそうした肉の方が食べたくない。

私は一応はイノシシの罠免許を持っている。講習も受けた、罠も仕掛けた。一定の知識はある。イノシシはそれほどは移動しないとしているが、必ず移動するイノシシもいる。群れではないイノシシもいる。本来いなかった離島に泳いで渡るということが確認されている。状況によってはかなりの距離移動するイノシシもいると考えた方がよいだろう。ワクチン入りの餌を食べないやつも必ずいるはずだ。結局のところ日本中のイノシシにワクチンを食べさせるというような、とんでもない話になってゆくに違いない。獣医学の不十分である。ウイルス学の不十分である。基礎研究の不十分である。対応するだけの学問の準備がない。イノシシがどういう生態なのかさえ、十分には把握されていない。実数も、移動距離も、わからない。なぜ関西から山形に感染が広がったのか、明確にならない。渡り鳥の飛来経路の把握さえ十分でない。鳥インフルエンザの感染実態は把握できていない。お金にならない基礎研究はやる必要がないというのが、国の考え方だ。経済優先で足下がぐらついている。

豚コレラの対策には豚の飼い方を変えることだ。大規模畜産をやめることだ。病気というものは必ず発生する。それは人間だって同じことだ。どれほどの衛生管理をやったところで病気になる。必ず死ぬ。生き物は無菌室で生きているわけではない。このまま大規模畜産をつづけてゆけば、人間の手に負えない新たな病気が大規模畜産から出現する。どこかで仕方がないという範囲を決めて折り合いをつけることだ。大規模畜産というものは、家畜を当たり前に飼育できる限界を超えた。一カ所に何万頭も豚を飼うなどということが、やってはいけないことなのだ。神を恐れぬ行為ということになる。自然循環の調和を乱してしまえば、世界の輪を断ち切ることになる。肉はたまに食べればいい。牛だって、鶏肉だって、たまにいただけば十分である。毎日食べようという貪欲が間違っている。暮らしの中に収まらないことはやめた方がいい。大規模にすれば経済の合理性があると考えるのだろうが、競争に追われているうちに大切なものを忘れた。家畜を飼うということは命を扱う、倫理を持たなければならないということだ。この行き着く先は手に負えない病気の出現である。

 

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