石垣島三線教室

   

 

石垣島は三線の先生が1000人いるといわれるほど、三線が盛んだ。毎年20人の先生が誕生している勘定になる。実際のところ今年八重山古典民謡の師範の合格者が3名。教師が8名だった。そのほかまだ4つの流派があるから。そちらの方の人もいるということだろうか。20人×50年で1000人である。何とか石垣島でも三線を練習したいと考えている。問題は石垣島で三線指導ということになると、指導が厳しいということになる。「てぇーげー」という訳にはいかない。三線のこととなると、真剣そのものの三線道ということになるようだ。66歳からの手習いで、道はちょっと無理なのだ。三線を楽しみたいのであって、三線で苦しみたくはない。楽しい三線教室のようなものがないか探している。そこでまだ誰か先生に教わるというようなことはできないでいる。新聞に青少年の家主催の初心者三線教室が出ていた。まずはこれだと思いさっそく申し込んだ。青少年の家でやるものなら、少々てぇーげーでも許してもらえる気がしたからだ。正月の於茂登岳登山に参加させていただき、青少年の家の企画が素晴らしいということは経験している。

三線の指導の事業があるというのは実にありがたい。もう3年毎日やっているのだから、初心者ということでもないのだが、ともかくすぐに申し込んだ。定員10名だった。先生として師範の先生も来てくれる。1回3時間。17日。21日。24日の3回の講習となっている。500円である。1回目は職員の方5名で指導してくれた。つまり日曜出勤ということになるのだろうか。行政の事業とは思えないというと失礼な言い方になる。予想通り定員オーバーであった。初めての方のばかりの中だったので、少し楽ではあった。三線の歴史で興味のある話があった。三線は中国から琉球国に伝わった。そして八重山に三線が渡来したのは、琉球王国の役人からということであった。それまで八重山にあった唄のユンタの様な古謡に三線の伴奏を付けたということだった。この首里王朝の役人が持ち込んだというところが、とても興味深い話だった。三線は統治の仕組みなのだ。泡盛のクウスが琉球王朝の政治であったように、支配を広げてゆく手法に三線が組み込まれていたということのようだ。いわば文化的外交である。ところが、八重山の唄の方が音楽的に上だったのだと思う。

当然役人のたしなみとしての三線であるから、厳しいのも致し方ない。昔は女性は弾くことが許されなかったものだ。厳しいのは楽譜を見ないで演奏しなければならないというところなのだ。記憶力は乏しい方である。それは受験勉強でしみじみ味わっている。覚えが悪いのである。それでも子供のころはラジオで聞いた曲をハーモニカで吹いていた。楽譜などというものは考えてもいなかった。宮田式のハーモニカというものを毎日吹いていた。ところが、今はラジオで聞いて歌うなどということは全くできない。ただでさえ悪い記憶力が、さらにさらに衰えている。頭の中に曲がないわけではないのに歌えないのだ。これはもどかしいことだが、年齢相応のことだと思うしかない。三線は演奏の楽譜と、歌の楽譜は別である。そのうえ唄の言葉も全く意味不明である。これをすべて覚えるのは至難の業である。そこであきらめて、楽譜を見ながらでも楽しめるようにと思っている。楽譜を見ることを悪いことだとは思わない。西洋のクラシック音楽の世界では楽譜を見て演奏するのは当たり前のことでわないか。

石垣で工々四を見ながら勉強してもいいという先生に教わりたいと思っている。今回青少年の家の教室でそういうテイゲェーの先生に教わることができればと思って参加している。ところが青少年の家の職員の先生も楽譜は見てはいけない派であった。耳から覚えろと繰り返し言われた。なかなかハードルは下がらない。弦を鳴らす位置も、棹と太鼓の境目が良いと指導された。これにも驚いた。教則本には太鼓の3分の1当たりと書いてある。はじく爪が糸に対して深い。先日、三線屋さんの先生は爪の先で引くようにという指導であった。指導はことごとく先生により違うようだ。やはり本物の八重山の師範の先生では無理なようだ。どこか、神奈川県あたりから、三線の修行に石垣に来ている方で、てえげぇー流、本土流で教えている人を探すしかない。たくさんの人が三線の勉強に石垣に来ているようだ。できれば、出張指導の先生がありがたいのだが。いないものだろうか。20日にはとぅーらばーまの練習もある。

 

 

 

 

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