今日も絵を描きにゆく
下の絵が今描いている絵で、一日描いてきたところ。こうして並べてみている。
子供のころから普通ではだめだと思い込んでいたと思う。普通であるということは、本当は凄いことなのに。特別でなければという意識。特別になるために頑張れと思い込んでいたかもしれない。美術大学の入学に厳しい受験競争がある。絵を描くのも競争。絵は描きたいものが描けばいいだけのものなのに。自己探求の世界であり。千日回峰行というか、結論があるわけでもない。描かれた絵が特別というのではなく、絵を描く生き方が特別ということだ。家庭環境の影響もあると思う。お寺という環境は異形の者の環境である。僧侶は特殊な人であり、普通の人ではない。体面を保つような意識が強くある。普通に子供が育つには困難な環境だったのだと思う。しかし、世間全体を考えてみれば、それぞれの家庭が特殊であって、別段普通の家庭というようなものはどこにもない。それほど日本の社会はめまぐるしく変化を続けた。昨日まで普通と思われていたものが、極めて特殊な環境に変わるというようなことが起きたのだ。
そもそも普通の暮らしというのはどういうものだろう。想像もしがたい。人が生きて死ぬということはその人にとっては一つしかない生き方である。しかも時代は大きく変化した。こういう時代には親がやっていたように生きるということがむしろ特殊である。標準的という意味で普通ということはない社会になっている。それでもどこかで普通が求められている社会でもある。普通は大変だ。一番が普通と言われる競争社会。絵を描くという事でも一番以外で生きて行けないという競争がある。これは全くおかしなことだろう。人間の個性が多様であるのだから、多様な芸術が存在するはずである。一番以外入らないという商品の世界の話が、芸術にまで入り込んでいる。私は絵を売って暮らすという事は出来なかった人間である。一番ではなかったので、絵描きとしては普通以下。その自覚もあるが、それでも絵を描きたいし、まだ自分の描く絵まで来ていない自覚がある。
なんとくこれではない。もう少し違うところに自分は至らなければならないという思いがある。2番だろうが、3番だろうが、自分の絵には至りたい。自分の絵に至りたいだけなのだ。絵を描きながら毎日そのことだけでである。大切になるのは自分というものに立ち返ることだろう。頑張るということでは自分の世界を深めることができない。結局のところ自分というものの確認ができなければ、安心立命ができないということなのだろう。見ている世界を、絵の始まりとしている。それすら本当なのかわからない。わからないのだが、見ている世界があまりにすごいので、この先に描くべき何かがあると絵を描いている。普通以上でなけらばという、呪縛の無意味なことに気づくことが大変だった。もちろんそんなことは頭では初めからわかっていたのだが。人と較べて考えないようになるために、どうも修業が必要だったようだ。油断なくひたすらに普通であること。これがなかなかできない。それは人間が生きるという意味を確認するということである。生まれてきた自分というものの存在意義。
社会というものは優秀であるという評価基準がある。自分が自分であるという意味とは別のことになる。人間という生き物は自分が自分でなければ安心というものには至ることができない。そこに向って修業する姿が生きるという事のはずだ。絵を描いて安心に至るという事は、人の絵と較べて評価されるから安心という事ではない。自分の納得に至れるかである。中学生の時、納得ということはどういうことか悩んだ。納得できないことばかりだったのだろう。我慢しろならまだわかるのだが、納得しろと押し付けられることが嫌だった。人との比較では安心はない。それが絵における普通という事ではないだろうか。普通の絵とは、自分のままであるとということ。何故何度もこういうことを書いてみるかと言えば、今日描く自分の絵の方角を間違いないためだ。ついつい立派な絵を描こうということになる。ゴッホが美術館にあるような絵を描きたいといいながら、ゴッホはゴッホの絵を描いて居た。