石垣島自衛隊住民投票拒否

   

自衛隊基地のできる予定地の上部にある、神聖な山オモト岳の最上部の水場。

石垣島では自衛隊ミサイル基地建設が進んでいる。十分な議論はされないまま、進められている。さすがに話し合い位持つべきだという事で、住民投票の請求がされた。有権者の3分の1の署名が集まった。当然、投票はあると考えていたがこれが、あっさりと行われないことになった。軍事的な問題は国の専権事項であるから、受け入れ以外選択の道がないと、中山市長が率先して進めている。果たして、地域住民は意見を表明すらできないのか。自衛隊基地が出来ることが、石垣の未来にとってどういう事になるのか、そいう事を十分議論して進めるべきではないか。こういう若い人たちが登場した。このまま議論がないまま、国が問答無用で建設を進めてしまえば、島民の間の分断が起こると話していた。まず、問題がどこにあるのか議論をすべきではないか。そして、現在の予定地域公民館5つが、こぞって反対している場所が望ましいのかどうか、考えてみるべきではないか。こうして、署名活動が始まった。そして、有権者の3分の一の1万4千人の署名で、住民投票を行う事が求められた。

これが、議会でまさかのことに拒否されて終わった。何故、議会は拒否したのか。住民投票を行うことを通して、石垣島民がこの問題をどのように考えるべきか、議論することは大切なはずだ。ところが、議会においても十分な議論がないまま、住民投票をやらないことにしてしまった。保守系議員は投票結果が怖かったのだろう。住民投票はやるべきと言っていた期待の保守系議員は黙ってしまった。住民投票をすれば、自衛隊基地反対票が圧倒的に多いに違いないと保守系市会議員が考えた結果の判断だ。市会議員の自民党系と、公明党系の人たちは、自衛隊誘致である。住民投票を行い、反対という民意が明らかになる。自衛隊建設を進めにくくなると考えたのであろう。市民の意見は反映される可能性がないのだから、住民投票は問題を深刻化させるばかりだと考えたのだろう。あくまで国の専権事項だから、受け入れるほかないという論理で押し切ろう。議論もしない方がマシだという結論。

この石垣議会の選択も、一つの選択であることは確かである。しかし、この議決によって、話し合うという、民主主義の大切な手法を切り捨てた事になる。石垣市は最も大切な、地域住民が市政に興味を持つという事を拒否した。何をやっても聞いてももらえない。こういう空しさのなかに市民を陥れた。国の専権事項は問答無用であるというだけでは、戦時中と同じことにならないだろうか。民主主義国家の安全保障とは、国民全員で議論すべきことだ。議論したところで、意見の相違は埋まらないのだから、話し合いも無駄と決めつけることでは、民主主義が死んでしまう。対立は対立として、充分に話し合い互いを認め合うのが民主主義であろう。石垣議会はずいぶんもったいないことをしたと思う。民主主義の芽を摘んだのだ。問答無用、意見など言わないでいい。お国のいう事には、黙って従えというのでは、公に対して協力して行こうという市民は育たないであろう。島のために頑張ろうという若者が、島を出てゆくかもしれない。地域社会というものが弱体化を始めている中で、市民協働の精神を育てる為には、市民の考えを十分に聞く。これが出発点である。ここで拒絶された市民はもう市のいう事など協力しないと、消極的に考えることになる。

この地域社会に対する絶望感は、石垣島にとって大切なものを捨てた選択になった。その未来に対する責任は、住民投票を否決した、中山市長と、自民党系市会議員と、公明党市会議員が追わなければならない。未来の石垣島の希望の火を吹き消したかもしれないのだ。少なくとも、私は石垣市にたいして協力などしないだろう。市民としての最低限の義務で沢山だと考える。住民投票すら拒否されたのだから、非協力な態度であるとしても許されるであろう。こんな事では、危機の迫っている地域社会が成り立つ訳がない。住民の地域を思う心があって初めて地域社会は成立する。その為には、どこまでも民主主義の確立である。一人一人の尊重である。意見の表明さえ許されないものが、市行政のやることに協力などしないのは当然であろう。落ちているごみを拾うか拾わないかの選択は、地域に対する愛情である。ポイ捨てをして平気な住民が増えることになる。すべての分野において、愛情のない地域社会になる。その原因を、石垣市議会はここに作ってしまった。残念なことだ。

 

 

 

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