自分の絵が好きという事

   

不思議なのか、当たりまえのことなのか、絵を描く誰でもがそうなのか、もう一つわからないが。一番好きな絵は私の絵である。これは幸せなことだと思う。最近は、石垣島の景色を描きたいというだけで、小田原に戻って絵を描こうという気持ちに一度もならない。少し不安なくらいだ。自分が一番見たい絵を描こうとしているという事に尽きる。そうなると、そこをどうしても描きたいという時以外は、描く気になれなくなる。絵を描く気持ちは、それぞれで全く違うので、他の人のことは分からない。私絵画という造語を作り、自分の絵を考えている。私小説と混同されることがままある。自分の心の中を深層心理を表現する絵画と思われることがある。私絵画はそういう意味とはまるで違う。第一義的に、自分の為に描く絵画という意味である。絵画に社会性が無くなった。社会に影響を与えるような絵画は失われた。社会的な商品絵画はここでは芸術という問題からは、切り離す。芸術としての絵画は私自身の内的な世界の問題になったという意味である。描くという行為の中にこそ、芸術としての、つまり自分が生きる価値とのかかわりが存在する。描かれた作品の意味は2義的なものになる。

自分が見たい絵を描くという事も、なかなか難しい。見たい絵が明確でないという事もある。ある程度こういう絵が好きだという事があっても、見えている世界を描く力がないという事もある。マチスも、ボナールも、鈴木信太郎も、中川一政も、須田剋太も好きであるが、やはり自分の絵の方が好きだ。恐ろしい思い上がりではある。一枚だけ監獄で飾らしてもらえるなら、やはり自分の絵にするほかない。今、暮らしている部屋にかけてあるのだが、一向に嫌にならない。自己陶酔者なのか、変な奴なのかわからないが、自分のことを考えるためには、それでよいと思うほかない。自分が見ている世界を描いている。自分が見ているという、見ている自己が確認できれば、それでいいのかと思っている。私が見ているとか、見たいというのは、私の価値観だから、他の人の絵ではどうにもならないという事かもしれない。人の見た深い世界はうらやましいものではあるが、絵を描くことで私という存在が、たどり着きたいという目標である。

私よりも深く見ているなと感じる絵は沢山ある。そういう絵を見ると、絵の世界の深淵を思わざる得ない。それでもその深さは他人の深さで、自分の深さとは異なる。深くなりたいとは思うが、自分の深さでやるほかない。結局のところそう思うわざる得ないのが絵というものだ。誰かのそれっぽい絵を真に受けて描いた絵というものは、一番見たくもない絵になる。真似をするという一番自分の俗っぽい嫌なところが表面化しているからだ。絵というものの世間的な価値に引きづられているという事。こんなこと今更何故やるのかと、情けない気持ちになる。まあ、気づくとやっているので情けないのだが。自分の絵の中に現れるそうした通俗のことであり、人の絵のことではない。ダメでもいいじゃん。そう口に出して自分を励ます。ダメな自分をダメなように描ければそれでいい。自分でないようなことを描くことよりはだいぶましだ。自分の範囲が自分にはちょうど良いようでもある。この頑張るぞ、という残された部分の自覚があるから、また描きたくなる。

この絵が、笹村出では困るぞ、といつも思う訳だ。そのちょっと今のところ、到達していない絵でも他人の絵よりは見ていなければならない。向かい合わなければならない。幸せというか、極楽とんぼというか。ここまで来て今更どうにもならないことである。自分の絵が好きな理由はもう一つある。自分が好きな場所を描いているからだ。須田剋太さんがそこを書いてくれたならば、また違うかもしれない。須田剋太さんに暗闇の中の棚田の絵がある。その絵は田んぼの恐ろしさが描かれているように見えた。確かに田んぼは恐ろしい場所だ。田んぼに踏み込んでみなければ、あの恐ろしさは分からないだろうと思った。恐ろしい魔物が住んでいるようで、足を入れることが怖いものだ。須田剋太さんはそういう田んぼの本質に迫っていると見えた。凄いことだ、私の見えていない深さがあると思った。確かに、脳天気な私の見ている田んぼとは哲学の深さが違う。それでも楽しく耕作する天国田んぼの方が好きなのだ。お米が実る豊かな生命力の漂う田んぼの方を私は見ている。この私が見ているというものは、やはり他に代えがたい。この明るい方角の深淵をもう少し見たいと思うのだ。

 

 

 - 水彩画