裁判員裁判制度の10年

   

裁判員制度が出来て10年がたとうとしている。現状を見るとうまく機能しているとは思えない。制度導入時に条件として言われた、裁判の時間短縮も進まない。裁判所や裁判官がこの制度で変わったとも思えない。早くやめるべき制度である。裁判員制度が出来る前から、日本には適合しない仕組みだと繰り返し書いた。予想通り日本では裁判員制度は定着しそうにもない。理由は被告になった時に、裁判員裁判は嫌だからである。裁かれるのも嫌だし、裁くのも嫌だ。裁かれるのであれば、専門家の裁判官の方がいいと思う人が多いのではなかろうか。素人の感情的判断が量刑に影響するというのは嫌だ。私がもし裁判員のくじに当たり、依頼されたとしたら拒否するつもりだ。思想信条として拒否する。法に従う自信がない。実際のところ、4人に3人が裁判員を受けていない。やりたくない人があるいはやれない人が、75%の制度は機能していない。4人の一人の裁判員をやってくれる人がいる。この方たちを尊敬するが、一定の傾向が起きているはずだ。ここに4分の1の選抜が働く。司法制度にそうした選抜が働いていいとは思えない。

裁判員を受けてくれる人は正しい傾向の人であろう。どちらかと言えば優等生的な方々かもしれない。大抵の場合、犯罪者とは縁遠い傾向の人たちが裁判員を受けるのではなかろうか。裁判員を受ける優等生的タイプの25%の人たちが、犯罪に関して判断をするという事になる。それは立派な良い傾向であるとしても、ある傾向の中での裁判が行われるのはおかしいことだと思う。むしろ量刑は一応AIで出すようにして、裁判官の判断とAI判断を同時に発表したらどうだろうか。AIが社会通念からしておかしな判断をするとすれば、法律の方を直す必要があるのだろう。犯罪を犯す人は、特殊な人である。裁判員を受諾する人とは別世界のひとであろう。裁判官はそうした特殊世界の専門家である。むごたらしい事件に関しても経験が豊富である。感情的な反応は少ないであろう。もちろん、人を裁くことは専門家であっても辛いことであろう。外科のお医者さんが手術をしてくれるのは必要なことではあるが、その手術の状況は厳しいものがある。人の体にメスを入れるというようなことは誰にでもできることではない。人を裁くという事は、人の命や権利にかかわる深刻なことだ。専門家に任せた方がいい。

原発ではないが、始めたことを簡単には止められないのが、日本社会の悪いところではなかろうか。誤りを改めるのは早いほど良い。裁判員制度は10年やってみて、上手く機能していないのだから、もうやめた方がいいということになる。アメリカの陪審員制度と比較されるが、日本の制度はかなり裁判員に重いものになっている。アメリカでは義務になっていて、断ることは基本出来ないらしい。然し1日だけの参加でもいいとされていると書いてある。日本では裁判が終わるまで何週間も参加しなければならない負担の重いものになっている。普通の社会人であれば、なかなか参加できないのではなかろうか。多く国の陪審員は全員一致の原則のということが言われているが、日本では多数決である。全員一致まで話し合うということがあり得るのか良く分からないが、どこかで、誰かが妥協するのであろうか。陪審員がとんでもない評決を出すことはがあるらしい。優秀な弁護士にかかれば、黒も白に裁かれることが起こる。

何故裁判員制度を止めないのかと言えば、裁判官の精神的な負担感の軽減ではなかろうか。人を裁くという重さを国民も、等しく味わえという事のような気がする。しかし、外科医と同様、裁判官はその仕事の専門家として尊敬されているのだから、精神的な負担は担ってもらうほかない。普通に生きる人間見たくないものを見ないで良いのだと思う。犯罪や刑罰のことで悩んでいたら絵など描けない。人間の生き様の選択として、そのようなことで煩わされないでも良いはずだ。まあ、これだけ裁判員制度の問題を繰り返し書いておけば、偏光のある人間として、選別されることはないのだろうか。そうだ、裁判員制度以上に検察制度を改革してもらいたい。警察が権力の下部構造であるのは、一定仕方がないことなのであろうが、検察まで権力を忖度するようでは、社会の構成は守ることができない。ゴーン事件で日本の検察制度が特殊であるという事は明白になった。三権分立を大切にするためにも、司法改革をするべきだ。

 

 

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