ゴーン事件で分かったこと

   

日産のゴーン事件で日本の社会の特殊な状況がうかびあがってきた。検察の在り方が、近代国家の組織とは到底言えないと言われている。世界から指弾されている通りの状況だろう。今までも冤罪事件が検察のでっちあげで、繰り返されてきている。司法制度の問題ではなく、検察の持っている行政的側面の問題と考えるべきことだ。今回の事件は国の意向を汲んだ、国策逮捕と考えていいのだろう。企業を忖度する姿勢、アベ政権ならではの事件に見える。検察は捜査の権限もありながら、正義を裁く司法の立場でもある。時に政治的な色合いの濃い忖度を行っている。裁判所のように行政から独立したような組織ではない。ゴーン事件は政府の意向を汲んだ捜査に見える。ゴーン事件は逮捕された人が、外国の著名な人だったために国際的に日本という国の前近代的な姿が浮き彫りになった。この機会に日本の三権分立を改めて問い直す機会にすべきだ。過去、ロッキード事件なども、政治権力闘争の事件なのだろう。政治の裏にある力が、検察を動かしているかのようなことが、後になると表面化してくる。日本の国営企業、日産なのであろうか。

ゴーン事件は日本の企業風土と外国人という関係である。企業は当然世界に開かれている。英語をしゃべるように奨励されている。しかし、根はどこの分野よりも日本的封建世界なのかもしれない。日産自動車は世界に車を売る仕事をしている。そして、日産は業績が低迷して、そのテコ入れに外国人のゴーン氏が社長になった。その辣腕によって、日産は立て直しに成功した。この頃はゴーン氏は救世主として大いに持ち上げられた。ところが、日産が持ち直した今となっては、ゴーン氏はできれば追い払いたい気持ちが社員に生まれた。要らないどころか迷惑な存在になった。という判断が働いている。どうやってこの金の亡者のリーダーを取り除くのか。ホリエモン事件と似ている。田中角栄氏が今太閤と呼ばれるような、それまでのエリート集団とは別枠の人間であった。それが原因で過去の伝統的権力の鵺集団から追い落とされたように見えた。ホリエモンやゴーン氏が守銭奴的であったのは事実なのであろう。しかし、違法であるのかどうかは微妙である。出過ぎた杭を敲くという事のように見える。見えない過去の利権集団の何かを、食い破る恐れがある存在に見える。

ゴーン氏は嫌いである。金の亡者であることは間違いないのであろう。それでも違法であるかどうかは、案外に微妙である。この微妙な存在が、企業的には排除できれば、有罪無罪は関係ないのであろう。ホリエモンも大嫌いである。まともに名前すら呼びたくもない。それでも両者の追い落とし方はおかしいと思う。ゴーン氏は何故か仮釈放もされない間に、日産、三菱、ルノーの三社連合から外されてしまった。弁明の機会も与えられないまま、自分が盛り上げた会社から葬り去られてしまい、ゴーン氏としては無念であろう。今はまだ見えていないが、背景に深刻な自動車会社の国際競争の世界がある気がする。有罪と裁判で決まるまでは、容疑者であり人権は守られなければならない。韓国では政権が変わるたびに大統領が犯罪者になると日本では大いに批判される。しかし、日本の社会は犯罪的な行為をしていたとしても、権力が覆されることなく、その利権構造は温存されていると考えた方がいい。その罪が問われないだけという気がする。

検察の行政からの完全な独立が必要である。検察が警察と連動している状態では、日本の社会の権力構造の闇に光を当てることができない。アベ政権は様々怪しいところがありながらも、すべてうやむやにして生き延びている姿。権力利権構造。これが日本の行政にも、企業にも蔓延している。こういう社会にしているのは国民の意思だ。国民が民主主義を好まないのであろう。民主主義が機能していない代わりに、検察の派手な行動が起こる。国民もこぞって利権主義になっている。その利権意識を先回りしている検察。正しくなくとも自分に利益があるという判断で選挙の投票を行う。国民の民度を反映しているのが、その国の政治。政治家は国民のことより、自分の当選のことばかりに翻弄されている。何をやりたくて政治家になったのかというより、政治家という職業にしがみ付くばかり。こんな利権意識がゴーン事件から見えてくる。

 

 

 

 

 

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