あしがら農の会感謝の25年

   

石垣に来て、新しい暮らしを始めた。小田原であったことが、日に日に客観的に見えるようになってきている。一区切りがついた。視点が変わるということは、自分を変えるということになるようだ。小田原での自分はあしがら農の会のことがほとんどを占めていた。農の会にかかわることで自分が出来ていた。その意味ではとても大きな柱が取り払われたことになる。生来無一物。いつも何もないところに戻ることが、絵を描くうえで大事だと思うので、よかったことだと思う。自給自足の暮らしへの興味で、山北で開墾生活を始めた。そのことばかり考えていたのだが、いつの間にか、みんなの自給ということになっていた。一人でやっているつもりだったのだが、いつの間にか大勢の中にいた。暮らしは合理的に行おうとすれば、だんだん周りとの共同が始まるのだろう。絵を描くのも一人のはずだが、水彩人の仲間がいることでよかったと思っている。

あしがら農の会は始まって25年経った。「地場・旬・自給」を目標にした25年であった。一人の食糧自給は、100坪の農地で、日々1時間の農作業を行えばできる。その目標を目指してやってきた。それが実現できた実りある、あしがら農の会の25年だった。25年経ちすこしだけ形が見えて来た気がしている。みんなの田んぼもそれぞれに試行錯誤が重ねられ、形ちが実現できている。みんなの畑も、ジャガイモ、タマネギ、長ネギ、小麦と徐々に姿が明らかになり始めている。有機農業塾の一年間の試行も、今後の展開に期待できる形が見えたと思う。あしがら農の会の周辺では、沢山の新規就農者が誕生した。新規就農者を側面から手助けするという目標も、すこしだけ成果を上げた。

この農業環境の厳しい状況下、農業を目指す人には専業であれ、自給であれ、様々困難が待っていたと思う。苦しい中、あしがら農の会が小さな灯であった。志を同じにする人がいる。心強い仲間がいた。私たちの小さな試みを、様々な形で、支援してくれる地域の農業者の方がおられた。それがなければ、到底ここまで来れなかったと思う。行政の方にも本気で心配してくれた人が何人もいた。後押しをしてくれた先生方もたくさんおられた。そうした人に出会えたおかげで、苦しい時も「何とかなる、大丈夫だ」と進んでくることができた。お陰様の25年だった。

この25年が切り開く25年であったとすれば、次の25年どのように継続し、発展できるかの25年であろう。農業の環境はますます厳しい、次の25年になる。厳しいからこそ、心を合わせることが大切になる。農の会はそれぞれの思いだけで出来ている。実に個性的な人たちの集まりである。それぞれの自立する個性が、互いを思いやる思いに繋がったときに、本当の力が出てくるのではないか。人を思いやる心があれば、誰かが助けてくれる。何度も、何度も助けてもらえた25年であった。

農の会は人を募集したことも、人を誘ったこともない。やりたい人を受け入れるという、実に緩やかな集まりである。だからこそ200人の輪に広がっている。この大勢の人は楽しいから集まっている。それだけに嫌な思いをすれば、自然に身をひいてゆく。配慮のない人が一人登場することで、10人の人が自然消滅した。しかし、良い人が一人現れると、10人の人がいつの間にか集まってくる。「地場・旬・自給」の高い志だけは、忘れず持たなければいけないのだと思う。

舟原の笹村の家には「農の会の家」にしたいと思っている。立派な機械小屋もみんなで完成した。何とか良い形の管理方法を見つけて、次の25年に役立ててもらいたいと思っている。幸い、お隣に住んで新規就農された黒柳さんが、当面管理をしてくれることになっているので、みんなで協力をお願いしたい。

 

 - あしがら農の会