つぎの時代に存在できる組織
あしがら農の会で現在、25周年記念誌を作っている。田んぼの現状を通して、市民が農業にかかわってゆく新しい形が表現できればいいと思っている。あしがら農の会は様々な人がかかわってきた。2,3回の体験的かかわりの人まで入れれば、数千人の人が活動を経験してくれたことだろう。農の会の空気感は他にはないものだという事が伝わっただろうか。その9割の人が、農の会の活動にかかわったという事も意識していないのではなかろうか。それでよいとしてきたのが農の会の在り方である。農の会に数年間かなり深くかかわりながらも、自分は農の会の人間ではないと言われる方が時々いる。そんな希薄な関係の感じが農の会の特徴なのだと思う。参加している人自身が農の会に所属はしていないという意識でありながら、全体がなんとなく構成されている組織。それが実現出来れば有機的な強い組織ではないかと考えてきた。日々後悔しているような人間である。ずいぶん迷惑もかけているだろう。迷惑をかけるだろうが、良いこともいくらかはある。組織嫌いという事もあったが、農業に興味を持つような人は、私と似たような人間だろうとも考えた。
農業の組織は農業技術の普及会の傾向のところがある。一つの農法がまるで宗教の教義のように厳然と存在する。こうでなければならないというような、一義が登場しやすい。私も自分自身の農業のやり方ではそうである。思い込みが強いから、思い込んでやり抜いたのが自然養鶏法であった。しかし、それが一つの考え方に過ぎないという事は良く分かっていた。百人居れば百通りあるのが農業技術でなければならない。百通りが共存できる組織でなければ、時代を切り開く組織にはならないと考えた。この点では成功している気がする。失敗に終わろうとしているのかもしれない。私は生きている間は、全力でかかわってゆくつもりであるが、この組織のもやもやした形が未来に続くのかどうかは全く不明である。又そのことはどうにもしようがないし、考えても始まらない事であろう。
ただ、日本社会の格差社会の到来を思うと、自給農が一つの逃げ場になるだろうことは確信している。協力をすれば自給農で生きられるという情報だけは残さなければならないという気持ちが強い。課題は、この協働をすればということである。農業者は独立独歩である。独りよがりで他を顧みない。私のことである。ひとりでやる自給は倍の労力がかかる。若くて、体力のある間はなんとか一人でやり抜けるであろう。しかし、人間必ず弱者になる。弱者には不可能という仕組みでは競争社会と同じことだ。弱者を含み込む仕組みを作ることが大切である。幸いのことに、このことを理解して、行動できる若い人が増えていると感じている。我々世代はこの点がダメだ。だから未来の方が大丈夫なのではないかと思っている。田んぼに来て昼寝をしているだけの人でも含み込めるような組織になれば理想である。沢山の田んぼグループが出来ては消えたのだが、労働時間で収穫を分配するグループは何かのきっかけで消えてしまった。どこかに不満が積もってゆく。農作業に平等・公平などあり得ないからだ。
能力主義を未来の組織がどのように乗り越えるかは、能力の高い人に協働の必要性が理解できるかである。協働の有効性を理解できない人は組織には不向きである。そういう人は一人でやった方が良いと思う。不満を持ちながら協働するという事は結果的には良くない。だから農の会では一人でやろうと思えば可能な仕組みもある。ひとりでやれるようになってから、次はみんなのことも。これは常に思うが、一人でやれる方が偉いと思ってしまう人が断然多い。しかし、みんなのためにと思う気持ちを心の底に秘めて持てるようになれば、人間頑張れるものだ。まあ、こういう精神論は下手をすると宗教風になるので、無い方がいい。最近の傾向として、個人情報の配慮という事がある。自分の名前を出してほしくないという人が増えている。農の会の田んぼの会に会員として参加していても、自分の名前が特定されるのは嫌だという人である。何が嫌なのかは理解はできていないが、そういう人がいるという事は確かである。こういう人までも農の会は含み込んでいるという事でもある。農の会の人間であることを知られたくないという人まで、参加できるほどの曖昧な組織でなければ、つぎの時代の組織にはならないという事なのだろう。