日大アメフト部監督コーチ除名処分
日大のアメフト部が監督の指示で、悪質な相手を怪我をさせることが目的の反則プレーをしていたと認定された。監督とコーチが除名処分がなされた。このことは当然の処分である。ビデオ映像を見ても反則の悪質さは際立っている。現状では、日大の監督の方針がゆがんでいた為こんな事件が起きたとされている。何故日本一のチームがこんなことになってしまったという点では、まだよく解明されていない。日大のこの事件に対する対応が、遅れている。すでに監督とコーチの処分が決まり、チームは対外試合の停止になっているにもかかわらず、管理母体である日本大学による第3者員会の調査は進んでいないようだ。日本大学という機構の自浄機能が働いていないという事なのだろう。内田監督が人事権も掌握している理事という事らしい。大学に学長より経営者側の方が圧倒的に力があるというところが、まさに前近代的な組織という事なのだろう。
日本のスポーツ界が相変らずの前近代的な組織という事だ。選手個人の自主性を尊重していたのでは、強くなれないと考えられているという事がまたも現れた。どうも、人間というものが、暴力的に強制されるか、莫大なお金を動機にしなければ強くなれない。という具合に日本人がなってきていると考えた方が良いのではないか。賞金がなければ頑張れない人間になった。自主的にでは頑張れない人間になった。人間が生きるという本質から言えば、方角が違っているだろう。スポーツをするという動機自体が、自分がそのスポーツが好きだからという原点から外れてきている。日本大学自体が、スポーツの日大という事が経営戦略という事になっているらしい。それなら日大は体育大学なのかといえばそういう訳でもない。あくまで学生のサークル活動という位置づけになっている。授業でアメリカンフットボールをやっているわけではない。
友人に日大に柔道で進学した人がいる。高校の時にインターハイ等でトップレベルの選手だった。その人は日大にスカウトされて進学した。学費も免除だといっていた。ところが残念なことに膝の大けがをした。その結果大学を辞めた。怪我をして選手として活躍する可能性がなくなれば、到底大学にいることはできないと話した。不思議な気がしたが、彼は当然なこととして受け止めて、警備会社に就職した。そして今でも立派に働いている。同窓会で会うと、もう働いているのは彼くらいなのだが、実に立派な人物になっている。日大のアメフト部がこうした選手を奴隷のようにしごいて強くする。そしてそのやり方だからこそ、日本一になった。多くのスポーツ関係者がキレごとでは、強くなれないと腹の底では考えていることだろう。金メダルが欲しいのであれば、お金と人間性を無視した訓練しかない。こんな本音が世間の当たり前なのではなかろうか。健全なる精神というものが、勝負には邪魔になるという認識だ。
自主性を育てることが大切なのだ。強制されなければできないという人間から、どうやって自らの日々をみずからの意志で歩むかであろう。その為にスポーツもあるはずだ。勝つためのスポーツという意味は、自らの怠惰の心や慢心に勝つためという事なのだろう。資本主義社会では勝つという事が経済の必然になっている。それで間違った道を歩むことになる。人間が生きるという事は経済的な成功など小さなことだ。経済に生きる日々を譲ってしまってはならない。土俵にお金が埋まっていると親方から言われて稽古をするという事は、まだ半分だと思う。もう半分がその先にある。自分という人間の本質に至るという事ではないだろうか。人間というものは経済を超えた崇高なもののはずだ。その崇高な世界に少しでも近づくために、スポーツというものもあるのではないだろうか。日本人は肉体を鍛えるという事に、武道の道を求めた時代もあった。相手に勝つという風潮が広がる中で、自分というものを極めることの意味は重要ではなかろうか。