田んぼと人との出会い。

   

夜明けの田んぼ。植えられた苗に少し水を入れている。

昨日はよい田植えが出来た。田植えもあと何回できるかと思うと、大切にしなければと思う。つくづく周りの人に助けられている。いつもいつもである。私のような、どうにもならない所のある人間が何とか生きてこれたのは、良い人との出会いがあったからだ。今田んぼが出来ているのは、田んぼの仲間がいるからである。溜池が復活できたのは、里地里山協議会の仲間がいるからである。私が家庭イネ作りというものをとことん極めてみたいと考えるようになったのは、田んぼの仲間が100人もいるからである。中でも、欠ノ上田んぼの仲間は、恩人と呼ぶべき存在である。思い付きのような私の意見に面白いといってくれる人がいる。先日、苗床で苗を眺めていた時に、稲の苗は4葉期辺りから分げつをする苗がある。同時に姿は立派なのだが、分げつしてこない苗があることに気づいた。その時にひらめくものがあった。もしかしたら、この分げつを早くからする株は、分げつを多くする遺伝子を持っているかもしれない。種もみをとるなら、この分げつをよくする苗を植える方がいいのではないか。それが確立すれば、最高の家庭イネ作り品種、欠ノ上種になる。

足跡とが田植えをした様子をうかがわせる。大きい人。子供の足跡。大股な人。一人でたくさん植えた人。これが本当の田んぼアートであろう。

よしそれならやってみようと思い立った。一つの田んぼの半分に分げつしている苗。半分に分げつしていない苗を植えてみる。違いが起こるかである。去年は1本植と、4本植を比較した。こんなバカな実証実験を面白いかもしれないと言ってくれる仲間がいる。自由に何でも思い付くことができる。こんなにありがたい環境はない。これが国の研究機関の職員であれば、あるいは農業系大学の職員であれば、たぶん思いついても実践できないであろう。まず許可がいる。その実証実験の取り組みの意味がやる前に問われる。始める前に面倒くさいいちゃもんが付くだろう。多分実りはないかもしれない、この実証田んぼをこの後観察できると思うと、わくわくしてくるものがある。やってみなければなんでもわからないという事だ。イネ作りで正しいといわれていることの、大半がやってみたら違っていた。田んぼごとに事実は異なるという事が分かった。思い付きを自由にできるという環境は仲間が作ってくれている。こんな恵まれたことはない。

良い苗を種籾用に10番に植える。

それは金沢に暮らした頃もそうだった。大抵の場合とんでもないことを思いついた。そして、それをつき合ってくれる友人がいた。学生の頃は3歩以上は走っているほど次々にやることが現れた。走って移動し宅なくほど気持ちが急いていた。今の金沢城の中が大学で、ともかく広かった。学内の谷間に陸軍の馬小屋があり、その中に部屋を作り暮らしていたことさえあった。広い学内を歩いている余裕がほとんどなかった様な気がする。何もかもが面白くて、次の面白いことが起こることが待ちきれない気分だった。ただほっつき歩くだけの時間が何時も足りなかった。その次から次に来る足りない時間のまま、今いるここまできた。目標が明確にあるという事はなかった。何か面白そうなことを、突き詰めたくなる。田植えをやるなら、田植えをやるという事にのめり込みたい。昨日起こった疑問は、苗は扁平である。東西南北どちら向きに植えれば一番良いのかということだった。

一つ何もしていない田んぼが岡本さんの田んぼ。

金沢にいた頃気ままに絵を描き続ける事が出来たのは、仲間がいたからである。そんなちょっとまずい私という人間を受け入れてくれる人がいたから、絵を描くという事に熱中することができた。今もこうしている。自分という人間のまま生きるという事が出来ているのは、周りの人がすべてを支えてくれているからだ。まったく幸運である。幸運と言ってしまうと周りの人に申し訳ないばかりだが、人徳など全くない。天邪鬼のへそ曲がり人間である。しかも特段の能力もない。それでも、人様と一緒に何かができるということのありがたさ。人間というのは有難いものだ。私が一人では何も出来ない人間という事があるのだろう。一人ではできないという事が分かっているから、仲間とともにという気持ちが強くなる。絵を描くという事ですら、一人ではだめだと思っている。同行である。志である。共有する思いである。

 

 

 - 稲作