大豆の会のできるまでーー3
味噌は自給生活の基本品目である。いつまでも大豆を購入しての味噌づくりでは、自給の農の会らしくない。そこで大豆を作ることになる。大豆を田んぼの畔に種を蒔いてみたらよくできた。この昔からのやり方には合理性があることが分かった。昔は1反の田んぼがあれば、一軒分のお米と麦と、そして味噌醤油が確保できたという話を聞いた。田んぼというものがいかに日本人の暮らしを支えたのかが分かった。田んぼで大豆を作れば、自給自足の基本が確保される。田んぼの畔は大豆栽培の良い環境だったのだ。やってみると、そういう事が分かった。大豆と田んぼの組み合わせは実によくできたものだった。こうして徐々に自給ができるという事が分かった。そのころは養鶏も軌道に乗りそうなので、いよいよ世田谷学園は辞めて、自給自足の生活に入ることにする。絵の方も画商に絵を売ってもらって生きてゆく道は諦めることができる。ここで自分のやりたいこととしての絵を描いて行ける安心が出来た。そのころ、一緒に塩沢で田んぼをやらないかという話がCLCAの和田さんからくる。
まだ、話は味噌づくりになかなか進まない。共同の田んぼを初めてやったのは不老山の塩沢という谷筋の田んぼである。塩沢の集落から、30分も歩いてゆく山の中の田んぼだ。この山の中にCLCAの和田さんのお姉さんが谷峨のお寺に嫁いだ方で、その紹介で田んぼを借りることができた。ここで5年ほど田んぼをやった。岩越さんや内山の瀬戸琢治さんとはこの田んぼで知り合う事になる。CLCAの子供たちも来ていたが、罰として田んぼに来させられたという事を知って、CLCAとのかかわりを止めることになる。塩沢では遠すぎると小田原の田んぼを借りられることになる。久野の坊所で共同の田んぼをやることになる。それは今は農の会の顧問である、石綿敏久さんの紹介である。これが23年前のことになる。その田んぼの奥にあった山に戻っていたお茶畑を復活させたことが、今のお茶の会に繋がっている。
農の会の立ち上げを主張したのは山田純さんである。山北のごみ処理場の活動に継続して酒匂川グリンフォーラムを始めた。反対運動をして、運動が成功したとしても、弱いところにまた迷惑施設の計画が立てられる。地域に根差した活動を広げてゆき、地域を強くすることが重要だという主張の活動だった。その中でもとくに弱いところにこそ農業の活動も必要ではないかというのが私の主張だった。その農業の活動は自給でしか成り立たないというのが、当時からの考え方だった。農業は大規模化と、自給型に分かれると考えていた。それが今の農の会の活動に繋がる。1998年の10月に山田さんの家で、風の谷という名称で10名が集まりを行っている。すでに始めていた、山北有機農業研究会を足柄地域一帯に広げてゆくことが目的だった。後に小田原市長になった加藤さんがその名前を使っていたので、その組織に入れてもらうという形なら、加藤さんも参加してくれる可能性があるという戦略だった。小田原出身の新規就農者を取り込まなくてはならないと考えた。
こうした構想力に優れた山田純さんがコーディネートしてくれたのだと思う。足柄平野の農業は経営としてはこれからは不可能になる。市民が農地を管理する活動だけが生き残れると考えていた。経営のできない農業では、ご先祖から引き継いだ資産としての農地も、世代が変わり、資産意識が変わり、徐々に放棄されてゆく。山北で出来た、山北有機農業研究会を農の会として、あしがら平野一体に広げて行こうと考えた。酒匂川グリンフォーラムの中の一部門という形に変更して、農の会が始まる。私としては山北有機農業研究会の展開と考えていた。その頃、有機農産物の宅配を仕事にされていた、内山の石井美帆さんが味噌づくりをやっていて、時々参加していた。冬の田んぼ真ん中で、たき火をしながらの味噌づくりである。味噌づくりというより、音楽イベントの様な盛り上がりだった。
この後は、4回目と続く。いよいよ農の会の大豆づくりが始まる。