大徳寺のアニメ襖絵の歴史的評価は
大徳寺にアニメ襖絵が出来るそうだ。おかしな世の中になったものだとまずは思った。客寄せなのだろうとでも思うほかない。数奇というような枠に入ることなのだろうか。後世にこの時代の日本の絵画の文化レベルを残すことになる。絵を描く人間として、耐えがたいことだと感じていたのだが。確かに世間全体から見れば、こういう事なのかもしれないと思い直した。アニメ襖絵なら人を呼べるが、文化勲章の大家の絵でも人は呼べない。生きている絵という意味ではアニメ作家の物の方かもしれない。私自身の興味もそうだ。そのことに却って気づかされた。もうアニメとか絵画とかイラストとか、分けて考えること自体が時代の状況とは違うのだろう。世田谷学園の美術部も私が指導したころから、アニメを作りたいという人が中心だった。世間と平面作品の関係という意味では、当然アニメ襖だろう。アニメという手法に人と繋がる力があるという事だ。
「釣りバカ日誌」北見けんいち、GAINAXの山賀博之、ゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズで上国料勇、アニメ「オトナの一休さん」伊野孝行ということである。絵としては私はよく知らない。知っていたところで水彩画としてそれを判断したのでは見当が違うのだろう。見当が違う事は承知で写真ぐらいは見てみたいとは思う。何かを確認しておきたい。この時代を確認したいという事になるのかもしれない。外された長谷川等伯の襖絵も今の時代に見ると、描かれた当時とでは違うにちがいない。等伯の絵も日本画離れしている。普通の絵を超えていたように思う。後世に残るのは運命のようなものが絵にあれば残るのだろう。今から400年もし残っていて、未来の人はどう見ていることだろう。どうでも良いという事か。
50年前に予言していた通り、絵を完全に再現できる技術が確立してきたと報道されていた。何千万円も現状ではかかるそうだが、そのくらいで出来るのであれば、モナリザの完全複製を希望する美術館もあるかもしれない。こういう技術は忽ちに、何万円単位までコストダウンするだろう。本来アニメという技術は印刷する前提で描かれている。格安で普及してゆき、新しい手法になるのかもしれない。私自身は判別の付かない複製が出るという前提で最初から描いていた。だから、技術という方向に行かなかった。職人的技術というものは機械の得意とする分野である。レンブラント様式で家のおじいさんをお願いします。フェルメール様式で娘をお願いします。こういう時代が来ると思っていた。どうもこの予測は外れそうだ。北見けんいち様式でおじいさんで、上野料勇様式で娘を打ち出してくださいの方が可能性が高い。まあ、美術史的に生きてきた者としては、ずいぶん情けない結末が待っていそうだ。北見けんいち氏とダビンチが同じ価格の時にどちらを選ぶようになるのかである。まあ、選ばれるから価値があるという訳でもない。
希少価値というものが絵から消えるという事は大切だと思う。骨董価値とか投資対象とか、そういう物とは別世界になるという事は絵画にとって健全なことだ。水彩画の批評でイラストのようだという言葉が、否定的に使われる。絵画はイラストではないというようなことを時々耳にする。この言葉の語感はイラストを少し低いものとする空気があった。しかし、アニメ襖絵とくるとさすがに雰囲気が一転するものがある。アニメ襖絵の大徳寺と同じものを注文するお寺さんが現れるはずだ。一つの市場になるかもしれない。これは麻生財務大臣の発想に似ている。アニメが日本文化の代表という意識だ。確かに経済効果とか、海外の日本への関心となるとそいう事だろ。これを壁紙化するというのはなかなかのことかもしれない。私絵画の意味が、ますます重要になる。生きる一人の人間としては、日々をより深く味わいたいと思う。この顛末は400年後のことになる。