欠ノ上田んぼの紹介

   

欠ノ上田んぼは小田原久野の田んぼです。5月26,27日が田植えになります。田植えをやってみたい方は、メールで連絡いただければ参加できます。参加いただいた方には、この田んぼで採れた2キロのお米を差し上げます。

欠ノ上の田んぼは江戸時代初期に開田された。久野川河岸にかなり大規模な土木工事を行い作られたと思われる。標高は80メール。いわゆる谷戸の棚田である。日本全国で江戸時代に入り開田が盛んにおこなわれる。徳川幕府のすぐれた政策のひとつである。多くの干拓事業や水土事業がおこなわれた。小田原久野でも少しでも田んぼを増やそうと、水路や溜池が作られてゆく。欠ノ上は水土の条件はあまりよくない地域だった。山を隔てた坊所から天子台という山の下に2キロほどのトンネルを掘り抜いて水を運んだ。大変な難工事だったはずだ。さらに一つ上の集落である舟原に3つの溜池を作った。その水を利用して集落の全体が田んぼに取り囲まれる地域になった。その結果山間の集落に10ヘクタールほどの田んぼが出来た。その棚田の久野川沿いの真ん中あたりにあるのが、いま私たちが使わしてもらっている欠ノ上田んぼである。

現在は緑肥の大麦が美しい。田んぼでも畑でも美しなければならない。

このあたりの田んぼは今から50年ほど前に、みかん畑に変えられていった。そしてみかんの輸入自由化に伴い徐々に放棄された。今でも荒廃農地化した元みかん畑だった場所が小田原には無数にある。この荒廃農地が国の元気回復事業の対象になった。地域の建設業に仕事を提供するという目的であった。農地が再生された後、誰かが有効に利用してゆかなければならないという事が条件にあった。元気回復事業の荒廃農地の選定を行った里地里山協議会の中で、欠ノ上の田んぼを再生したら、農の会で田んぼをやってくれないかという事になった。もう10年ほど前のことになる。そして田んぼ再生計画を笹村が作り、復田をした。しかし、何処の農地も同じ結果になったのだが、建設業の方たちは農業のことを知らないから、田んぼに石が沢山混ざる結果になってしまった。今もその膨大な量の石に悩まされている。

苗床では順調に苗が生育している。

久野川の左岸に位置する棚田14枚に分かれた6反の段々畑である。そこを現在、大豆の会が3枚。岡本さんが2枚。欠ノ上田んぼが12枚。畑を1反ほど耕作している。当初のメンバーの多くは原発事故を契機に止めることになった。そこで、舟原田んぼをやっていた笹村が、新メンバーを加え再出発した。もうあれから7年になる訳だ。現在の参加者は石原夫妻。岩本正。上野夫妻。太田夫妻。恩田夫妻。黒澤家族。近藤夫妻。笹村夫妻。清水康。白石登志子。杉山家族。根守良一。松田夫妻。吉田夫妻。渡部純一郎。である。12枚を、それぞれ担当が決まっていて、基本は自分が管理する田んぼは決まっている。それぞれの能力と、状況に従い、担当する田んぼの面積は異なっている。笹村は水管理だけの担当でずいぶん楽をさせてもらっている。過去最高のチーム欠ノ上になっている。

発芽の状態。このニョキっとした芽が太く、たくましいほど良い。発芽の量もパラパラで丁度良い。

耕作方法は苗床直播の苗作り。5葉期手植え。29㎝角植え。1本植えが中心。深水管理、流し水管理。ソバカス抑草。一部冬季湛水。徹底した転がし。水を温める水路でのクワイの栽培。平均的に畝取りを達成している。120キロの分配を目標としている。ほぼ達成してきた。理想の家庭イネ作りの形を追求している。専業農家のイネ作りとは違うやり方である。しかし、家庭イネ作りとしての合理性のある方法を追求している。田植えは手植えの方が楽しいというような、田んぼを楽しみながら、専業農家以上の収量を上げる方法である。田んぼをとことん味わう家庭イネ作りといえるだろう。一人ひとりでありながら、みんなとの緩やかな連携が保たれるという事。この誰でも畝取りできるやり方を現在「家庭イネ作り」という本にまとめている。農文協が出版してくれることになっている。

私がこの田んぼをやるのはあと2回と決めている。家庭イネ作りの農法を学んでみたいという方がいたら、最後の機会になる。自然養鶏もそうだったのだが、今でも教えて欲しいという方から連絡がある。終了してからでは、お互い残念なことになる。

 

 

 

 

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