舟原溜池は予定水位まであと5センチ

   

強い雨が降り、舟原溜池は満水に近づいている。上の池は上手く水がはけている。この溜池は江戸初期に作られた農業施設である。この農業施設をそのままにして、ビオトープのように手を入れてはならない。とする環境原理主義があった。とんでもないことで、ここを養魚場にしたとしても、蓮池にしたとしても、何の問題もない。以前は魚が放流され、釣り場になっていたのだ。当たり前のことだが溜池というものは、地域で暮らしに役立つように様々な形で利用されてきたものだ。田んぼが減少している中で、可能な形で利用することで、この溜池が維持される可能性が出てくると考える。農業遺構として、税金で管理するというようなことは、すでにできないことである。当面はこの溜池を農業遺構であるという共通の認識を持つことからだ。その結果、この地域の人が誇りの持てる、憩える美しい場所として大切にできれば、それが一番よいのだと思う。

60センチくらい水深があるのだが、ガマの穂が出てきている。手入れをしなければ、ガマの穂が水面一杯に広がることだろう。もう少し深くすることで広がることを制限できるかもしれない。左のミズキの枝を取り巻くように山藤が咲いている。なかなか美しいものだ。キブシ、こぶし、山藤、ミズキとなかなか見事な舟原の春になった。花が咲く美しい場所であるという事が、まず第一ではなかろうか。花は人を呼ぶ。人が来るようになれば、美観が維持される。大切な場所にしようという人も現れるはずだ。私はあと1年半で小田原を離れることになる。そうでなくても歳をとり草刈りも出来なくなる。誰かが引き続き管理してゆきたいと思うような場所にそれまでにしたいと思っている。美しい場所にならなければ、保全は出来ない。

排水口部分、ここもなかなか面白場所だ。

環境保護運動には原理主義がある。県の環境関係の職員にこの溜池をのことを相談して歩いたのだが、すべての方がそのまま残さなければならない。何かを持ち込んではならないという考えだった。環境というものをどういうものと考えているのか信じがたい思いになった。イスラム原理主義というものがどういうものかわからなかったが、自分たちの権力の拡大の主張にイスラム教というものを持ちだして、正当化しようとしているように見えた。イスラム教を持ち出せば、議論を封殺できる。環境運動でも環境保護という言葉を持ち出せば、論理を超えた錦の御旗のようなものとして、議論を抑えられるというような傾向である。私も小田原めだか会議の一員であった。小田原メダカの生息地を守る会にも参加していた。有機農業をしている。有機農業の方が環境に良いという意識もある。しかし、こうした活動の中で環境原理主義が障害になる。困ることの方が多かった。田んぼを干すのは環境破壊だといわれたことすらある。農業をやるという事はそもそも環境破壊である。その中で、環境の中に自分の暮らしを織り込むという事が重要と考えてきた。環境の中に暮らしを織り込むことができるかを模索してきた。

環境原理主義者に閉口するのは、暮らしの自然への折り込み方に苦情を言ってくるからである。自給農業に生きるという事も環境に負荷を与える側面がある。負荷を与えるし、環境を豊かにすることも行う。その綜合の中で、かろうじての調和を探そうということなのではないか。農業は美しいものでなければだめだ。原発と比較として太陽光がマシだと考える。電気を使わない暮らしが可能なら別だが、それが出来ない以上仕方がない。人間が生きるという事は環境を改変するという事だ。特に農業は環境破壊そのものだ。しかし、手入れをすることで新しい永続性のある自然の使い方を探しているのだ。生きる以上ものを食べる。あくまで比較的マシな農業のやり方を選択できるだけだ。一切自然に手を付けないというような原理主義的選択はない。人間の生きるすべてがそういうものなのだ。完全を求めて、調和というものが見えなくなる。ここが原理主義の怖いところだ。

 

 

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