裁量労働制の拡大

   

▼裁量労働制 あらかじめ想定した労働時間に賃金を払う「みなし労働時間制度」の一種。一般的に法定労働時間を超えると残業代が支払われる。裁量労働制を導入すれば、実際に働いた時間と関係なく、労使で合意したみなし労働時間を働いた時間とする。厚生労働省の「13年度労働時間等総合実態調査」は、裁量労働制で働く「平均的な人」の労働時間は9時間16分で、一般労働者より1日約20分短い。双方のデータの算出方法が裁量労働制は1日の労働時間を調査したのに対し、一般労働者は残業時間だけを調査するなどデータに不備が見つかった。野党は問題のあるデータをもとに法案の策定作業を進めているとして撤回を求めている。--日経新聞

厚生労働省が出したデーターが意図的に裁量労働制にしても労働時間が増えることはないという作為があるようだ。なぜそこまでして裁量労働制をとり言えれたいのだろうか。企業の発想が限界にきているのではないのだろうか。ワタミの渡辺社長は一面正しい。正しいけれども裁判には負けた。負けて謝罪もした。然しその主張を変えた訳ではないだろう。目標として夢を描き、その夢に向かい全力を費やす。それは企業の内で働いていても同じではないか。ワタミの社員に夢として全力で働くことを要求した結果、ブラック企業になった。企業の要求に喜んで応じているかのような態度をとらざる得ないのが、雇用されている側の心理ではないだろうか。特に創意的発想を必要とする職種では、労働時間を限界無く必要とするだろう。電通の事例はそれを示している。国際競争力のある企業という事になれば、定時退社社員だけでは競争力がなくなるという事なのかもしれない。

良い絵を描いた天才たちのなかに、絵を描くときに一日8時間と決めた方が良いなどと考えた人は居ないだろう。北斎だって、ダビンチだってきっと限界無く仕事をしたのだと思う。描きたいときに描きたいだけ描く、それで死んだとしても本望というのが大抵の絵描きだ。絵を描いていて調子が出てきたが、5時になったから終わりにする人は居ないだろう。少なくとも今の私はそう考えている。企業も競争に勝つために卓越した天才を必要としている。一部の極めて優秀な人材が、自由に働き、成果を上げてくれるのでなければ企業が存続できないと考えているだろう。自己責任で労働時間を自由に設定してもらう必要がある。その結果どれほど労働時間が増えても構わないという考え方が、裁量労働制なのだろう。そうした考えを取り入れなければ、競争には勝てないというのがアベ政権の背景にはある。要するに裁量労働制の法の運用と一般的な労働の意味の違いである。

ところがこの法律が悪用されれば、過労死の原因になる。裁量労働制が単純労働職場においても悪用されるという事になる。ブラック企業がグレー企業として存続されることになる。何が創造的労働であり、何が単純労働なのかだろう。給与のために働くという資本主義の矛盾である。だから、国会での議論を聞いていると、働くという事の価値感があいまいなままの議論で、どこか陳腐である。誰もがやりたいことをやりたいだけ、やるのが良い。やりたくないことはやらない。そうはいかないので給与で我慢してもらう。それは本当の人間の生き方であろうか。やらされるところが問題なのだ。やりたくはない、仕事だから我慢してやる。これでは良い発明など生まれない。全ての人間がやりたいことをやりたいようにやるのであれば、裁量労働制の法律はいらない。それでは競争に負けるというのが、日本の焦りである。

問題は裁量労働制になって実際に長時間労働になるのかどうかである。必ずなるだろう。平均的にはならないの可能性はある。しかし、一部の分野の一部の人が過労死するようなことは必ず起こる。そしてその長時間労働が合法的であったと、裁量労働制で自らの選択であったという結果が生まれるであろう。その選択が周りの空気の圧力で押し付けられたものかもしれない人なのかもしれない。つまり企業で働くという事は常にこうした限界が存在している。90%の人間には問題が起きない裁量労働制であっても、10%の人間には危険な制度になりうる。農業者が勝手に長時間労働で過労死しても誰も何も問題にはしない。最低賃金もない。同じ労働といってもまったく意味が違う。そう思うとこの議論が空しく聞こえてくる。

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