舟原溜池の道普請
溜池へ行く道が整備されたところ。緑の袋はだんだん草が生えてしっかりするはずだ。下に見えているは、私たちの長ネギの畑。
子供時代の藤垈には道普請があった。境川村役場のある場所から上は歩く道しかなかった。藤垈部落の上までは2キロぐらいだろうか。その上の荻窪の部落まではさらに4キロほどある。ここを歩いて暮らしていた。道に大きな石でできた段差があったからだ。ここを乗り越えるためには馬車なども大変苦労していた。車が入れるしようという事で、昭和30年ころにみんなで道普請を行った。そうして、向昌院まで車で入れるようになった。これは公共事業ではない。そのような部落の作業はしょっちゅうあったものだ。ところが向昌院ではおじいさんは役場に勤めている。おじさんは中学校の教員。なかなか村の作業に出られない状態であった。すると出れない家の者はお金を払う事になっていた。このお金を払う事も大変であったので覚えている。東京の大学に行っている兄弟がいた。自活しながら大学に行っていたとしてもかかりがない訳ではなく、生活全体が相当に大変であった。
道普請を思い出したのは、舟原溜池に行く道を直したからだ。渡部さんと二人で2日間かけて道を直した。私には大変な作業ではあったが、気分爽快の作業であった。これで溜池が良くなり、地域の為にもなると思うと、嬉しい作業であった。渡部さんはなんでも詳しい上に体力がある。一日身体を動かし続けても大丈夫だ。私はせいぜい半日が良いところだ。舟原溜池は子供たちに見てもらいたい。久野という地域に田んぼが開かれた時代のことを記憶してもらいたい。人間の暮らしというものがどのように行われてきたのかを、知って欲しい。江戸時代初期に日本中が新田開発の時代がある。この時代久野でも田んぼが広がって行く。田んぼが出来るという事は人口が増加してゆくという事になる。新田開発をするという事は各藩の財政を豊かにするという事だ。幕府への上納金とは別の収入として、加賀が百万石であっても、新田開発で10万国の別枠の国力を創出するというようなことなのだろう。各藩は新田開発による財政の健全化を模索した。一反の田んぼを広げるという事は、1家族が暮らせるという事になる。人が増えるという事が豊かな地域になるという事であった。
ここは溜池の下の堤である。今度草を取り除いて堤の下の構造が見えるようにしたい。この部分の下に溜池の排水口がある。水がどのように取り入れられ、どのように田んぼに導かれたのかが、分かるようにしなければならない。溜池の保全は農業遺構としての保全である。昔の姿にできる限り近づける必要がある。その意味では水を一杯に溜めるのが一番であるが、水を溜めると安全対策が必要になる。子供でも背が立つぐらいの深さで、昔の溜池の姿が想像できるようなものを作りたい。だから、全体を3つぐらいの棚田状にしたい。棚田部分にも水をためることが出来れば、管理も楽になるはずだ。棚田にして、アヤメの地区。菖蒲の地区。蓮の地区。睡蓮の地区。このように分けて管理を行えば、楽に美しい場所が再生できるのではないかと思っている。美しい場所になれば、人が集まり、その場所も保全もされてゆくはずだ。
問題はここの管理の永続性である。次の世代の人が楽しんで管理して行けるような仕組みを作らなければならない。舟原集落のみんなの庭になればと思っている。私が管理できるのはあと2年である。この間に何とか基礎を固めて、後は次世代が継続してくれるようにしなくてはならない。この点すこし焦りがある。昔の道普請である。誰かに管理されてやるのではなく、自主的にやるから楽しい共同作業に安る。本来部落というものは水を管理するという仕事で繋がっていた。それは日本という国が瑞穂の国という成り立ちである根本である。水を守り、水を分け合い、水を生かす。ここから日本人が生まれた。道普請は賃金の生じる仕事ではない。誰かに見張られてやる仕事ではない。みんなの為が自分の為であるという、部落の暮らしを確認する仕事である。これからの時代そういう協働の在り方を見つけない限り、暮らしは衰退してゆくと思われる。暮らしの見直しの為にも、舟原溜池は貴重な場所になる可能性がある。