2017年の終わりに

   

転換期を生きる人間としては、2017年は潮目が変わった年か。流れが岩にぶつかり、しぶきを上げ流れの方角が崩れた。その年もいよいよ終わる。北朝鮮問題。森友家計問題。トランプの自国優先主義。九州北部豪雨。共謀罪の成立。深刻な殺人事件。大企業の相次ぐ偽装の暴露。世界中が危うい。来年は良い方角が見えてくる年になってもらいたいものだ。日本は福島原発事故で変貌せざる得ない状況に追い込まれた。明治以降日本が求めてきた科学万能の負けまい主義の終わり。人間が暮らしから生み出す生の声が遠くに聞こた年でもあった。原発事故が起きて、小田原も汚染された。小田原に暮らすことを恐怖として、移住した人も多数居た。そんなことを馬鹿げた非科学的なこととして、蔑んだ人も居た。人間が安心して暮らしたいという思いが根底が揺らいだのだ。何の影響もなかった、強靭というような人が多数派なのだろうが。この文明の転換に気づかない無神経だと言いたい。科学的に安心だと考えて生きているという事が、実は全く根拠のない安心神話であった。それは原発に象徴されるの巨大な科学の神話の虚構が崩れ去る姿であった。

人間がこのまま、科学的発展という虚構に向って生きることが、必ずしも人間の幸せな世界とは言えないということを、人は暮らしの中で体験してしまった。発展と停滞。発展が人間にとって良いとは限らないという深刻な現実。過去の暮らしを掘り起こさざる得ない。月にまでロケットが行き、宇宙旅行ができるという希望や夢。一方に、北朝鮮がアメリカまで核ミサイルを撃ち込めるようになるという現実が繋がっているという事。科学という怪物のコントロールを失えば、人類は滅亡の奈落へ消える。発展が必ずしも人間の幸せとは限らないという当たり前のことが、原発事故という共通体験によって、それぞれの現実になった。これほどの体験でも体験とできない人と共存する居心地の悪さ。放射能など何の心配もないと、廃棄すべき中古原子炉を修繕して再稼働するという、根拠なく自信満々の人間たちがいる。その一方にこのままでは危ういのではないかという不安の予感のなかに生きる人たちも確実に増加した。そして、自信も、不安も曖昧なままという大多数の大衆というものが揺らぎながら埋め尽くすように存在する。そして混沌の世界に大衆のうねりがわずかに動いた。

未来が見通せないが故に生まれている対立が社会の不安定要因となり、日本の社会の混迷度を目一杯高めている。それゆえの安倍一強政治。山北に移住した1990年前後には、日本は社会という全体では、いよいよ期待ができないであろうと結論を出した。反社会的な気分に襲われたこともあり、山の中に移住し、すべてをやり直してみようと考えていた。国が終わるのであれば、自分だけの世界を構築するほかない。一人で山の中で自給生活を始めた理由の一つだった。直接的には社会の中で絵が描けないという事であった。社会の方で受け入れてくれないという現実もあったが、私の制作が間違っているわけではないという、確信もあった。社会が誤った方向に闇雲に向っているという諦め。価値を共有できる者だけで、仲間と生きる道を探すほかないという思いであった。自給自足で生きられるという人間の原点からやり直してみた。福島原発事故を体験して意識が変わった人も、急激に増えた気がする。このままではまずいという事に気づいた人たち。人間の幸せはもう少し違うところにありそうだと思う人たち。

アベ政治が5年間も続き、国民はこの理不尽な政治をいまだ已む得ないものとして支持している。これはあまりに世界全体が不安であり、日本が衰退の淵に存在するが故の、狼狽のような支持と思うほかない。その一方で、こんな不幸な時代が続く中にも、新しい人間が生まれ始めている気配も感ずる。一人一人が社会の枠組みから外れたとしても、自分の生き方を模索しようとする時代の始まりを感ずる。原発事故で逃げ惑う人間がもう一度、それぞれの位置にしがみついて、それぞれに初めてみようかという動きを感じる。いくつかのそうした胎動を感ずる年でもあった。それはわずかな響きであるが、緩やかにその響きは共鳴を始めている。その共鳴が社会の底の方でわずかずつ動いているようなのだ。転げ落ちている石は止められないが、落ちてしまった石なら押し上げることができる。競争のばかばかしさ。経済だけではない価値観。つぎの時代の模索が動き出している気がする。2018年には新しい生き方を探してみようという前向きなものが感じられるようにも思える。私はいよいよ農業最後の2年間に入る。

 - 身辺雑記