水彩画と私画
19回水彩人出品作 会場での撮影
私の絵に関して正直な感想をいただいた。全くひどいという事と、写真の方がよほど素晴らしいという意見である。この意見はたぶん世間的には多数の感想だと思う。だからその意見を公開したうえで、考えてみたいと思うのだが、その意見には公開しないで欲しいと書かれているので、公開できない。私の描いている絵は、世間に評価されるとは考えていない。またわずかでもされたいとも思って描いてはいないという事である。私が絵を描くという事は完全に自分自身の問題である。いまさら評価されてというのはさすがにない。六無斎である。写真の方がよほど石垣島の素晴らしさが伝わるという意見はなるほどと思う。人が絵に何を見ているかである。石垣島のすばらしさを描こうなどと全く思っていないという事だ。それが絵画とイラストレーションとの違いだと思っている。イラストレーターからこの言い方で怒られたことがある。別に絵画が上と言っている訳ではない。石垣島の観光パンフレットに写真ではなくイラストを使うとすれば、石垣島の魅力が分かりやすく描かれたイラストでなくては役に立たない。
マチス「カタツムリ」
ところが、絵画の場合「海」だけでいい。「心」だけでも良い。何処であろうが、何に見えようが同じである。マチスの絵のカタツムリをみて、カタツムリに見える人はまず居ないだろう。生物イラストであれば怒られるだろう。カタツムリである必要もない。この大きな絵は確かロンドンで見た。この絵で一番重要なことは、絵というものが描かれてゆく成り立ちを作者とともに体感するという事にあると考えている。制作するという意味である。これも全く私の勝手な見方であり、人によって違っていいのだが。マチスの制作の過程ではカタツムリのデッサンも残されている。これはさすがにカタツムリだとわかる。たぶんこれで頭の中にあたりを付けたのだろう。そして色のぬられた紙が順番に張られてゆく。これは水彩画である。この塗られ方も微妙に良いのだが。ガッシュで粗く塗られれている。色が塗られた紙の張られる順番が見るものにも描かれてゆく過程の魅力として体験できる。そして、出来た絵はカタツムリには見えない。色彩というものがあらわす世界観を感じる。こうして自分の絵と並べると、誠に恥ずかしい。絵というものがどういうものかがわかる。
絵を描く目的はそれぞれであるという事だ。見えているように描くことに喜びを感じる人も居るだろう。心象を表す人もいるだろう。私には人間が見ているという事だけが重要な要素だと考えている。見ているという事から、その人が見えているという事から、自分という人間が作られている。この見え方というものは、似てはいるのだろうが、似て非なるものでもある。今晩のスーパームーンを見て涙を流す人も居れば、眠くなる人も居るだろう。見えている世界が違えば、見え方も違うのだ。千差万別の見え方によって、それぞれの人間がある。だいたい同じだという考え方と、微妙な違いこそ重要だという考えがあるのだろう。私が石垣島の田んぼで見ているものは、間違いなく田んぼをやっている私にしか見えないものだと考えている。この見えているというものを突き詰めてみたい。それ以外の方法に私というものに至る方法が見当たらないというのが、絵を描く理由のようだ。
人間の性格がおかしいせいか、結果が明確でないと進めない。今や自分をやり尽くして死にたいだけだ。千日回峰行などでは納得がゆかないのだ。絵という痕跡を残しながら生きたいのだ。これがだめなところかなのかとも思うが、ダメでもいいじゃん。というのが居直った結論である。自分のレベルで、自分に併せてやろうと考えている。背伸びして座禅などしていても私には無理だと考えた。たぶんブログを書き続けているのもそうなのだと思う。こういうことは曹洞禅では否定されている。10年前の自分の頭の中の一端が残されているという事が必要なのだ。昨日、自分がいつから田んぼに参加したか、私のブログで確認できたという人がいた。記録してゆくという事で、分かるという事がある。自分の見ている世界をわかるためには絵を描く以外にない。これが私の絵なのだと思う。5年前の絵、10年前の絵、20年前の絵、中学生の時の絵。いろいろ残されている。その絵を見てなるほど自分というものはこういう情けないものであるかと参考になる。少しづつ絵が自分の見ている世界に近づいてきている。それがわずかな頼りの様な気がする。