入浴瞑想法
日帰り温泉好きで入りたいだけ入っていると1時間半にもなる。日帰り風呂で何をしているかと言えば、自己流瞑想をしている。お風呂は体を洗うだけでなく、頭の中も洗いたい。1時間半雑踏の中で良くも瞑想など出来るものだ。という事だが、瞑想は雑踏だから良いと思っている。瞑想は一人でやらない方が良い。ひとりでその気になってやっていると偉そうなことになりがちだ。確かに練習段階では静寂な環境が必要なのだと思う。座禅をしたことで、静かな心の状態というものをそれなりに知っているつもりだ。無念無想ということが言われるが、座禅の時の頭の中はかなりの勢いで脳の活動があり、脳は全力活動している状態だと思う。ボーとしているのとは違う。その激流の頭の中に浮かび続ける想念にとらわれないという事が大切だ。思い浮かぶ無限に流れてくるあれやこれやを、止まらずそのまま押し流す感じだ。その為に座禅で足が痛いとか、身体が苦しいといやう事は役に立つ。苦の感覚が必要になる。そのことで頭の中を流すことで、思考する回路を働かさないことができる。
頭の思考回路を働かさないで、流れのままにすると何が起こるかと言えば、脳に溜まった莫大な情報を洗い流すことになる。パソコンを一定期間使っていると、重くなり立ち上がりに時間がかかるようになったりする。余計なものがこびりつき、肝心の動作を鈍らせる。人間の脳も同じで、生きていることで溜まってゆく様々な情報を消去することが必要になる。パソコンならごみ箱に入れて削除してしまえば見えなくなる。頭も時々洗い流す必要がある。痕跡までは消せないが、頭の中を洗うことは出来る。それが私には風呂だ。身体を洗うという事はめったにないが、頭の中は洗う。頭の中は洗い流した方が良い。その方法が、入浴瞑想法である。法とういうほど大げさなことではないが、頭の洗い方よりも、頭の中の洗い方の方が少し面倒だ。
水の中に浮遊している。水温は17度くらいがよい。冷たいと感じる必要がある。だいたい3分から5分を4回ぐらい繰り返す。200数えるのだが、その時の心持で、早かったり、遅くなったりする。身体を温めてから水に入る。水風呂に浮遊している。水中ヨガというのもあるらしいが、何も息を止める必要はない。どんな姿勢でもいいが、自分なりの形を決めなければならない。五郎丸ポーズのように、気持ちを集中させるには、それなりの手順があった方が良い。それぞれの形でかまわない。頭を出し静かに水に浮かび数を数えている。座り姿勢でも良い。この時は両足親指だけで座る。あるいはお尻だけついて脚は浮かす。呼吸は普通でかまわない。目はつぶっている。座禅のように半眼ではない。腹式呼吸とか、呼吸をゆっくりとか、そういう意識をするより、ただ当たり前に水に浮かんでいれば良い。水で身体は冷たい。しびれるように冷たい。この冷たさに意識を集中する。冷たさの感覚それだけになる。冷たさに集中すると、肉体が消え去ってゆく。冷たさという感性だけの存在になる。透明になって、存在のない身体に、冷たさという感性だけが通り抜けて行く。肉体のなくなった感性だけの中で、水によってすべてが通り抜け流れ去ってゆく。流れるままに流されることが良い。
初めからは難しいとすれば、最初は肉体を意識しない努力をする。頭に沸く想念は仕方がないので、一応そのまま気にせずに流しておき、呼吸の数だけを数えている。それでも頭に何かが浮かぶ、浮かぶことを遮るのでなく、浮かぶことを流してゆくようにする。ともかく肉体があることを消す。意識は冷たさを味わうようにする。ああ冷たくてありがたいと思う。感謝する。必ず肉体が消えると思い込む。思い込んでいればいつの間にか肉体があったと感じていたあたりが、ただ冷たい感覚の広がりだけになる。冷たいとか、熱いとかが、辛いだけではない心持になる。最初は辛い冷たさも、身体が慣れると心地よくなる。瞑想は一人より、雑踏が良い。一人でやっていると危ういものになる。この瞑想は単純に頭の洗浄方法であり、頭の更新である。滝行と似たようなものかもしれない。目的は特にない。何かになる訳でもない。身体をお湯で流すことで、身体の不浄が流されるように、頭の中を洗うという事で頭の洗浄を行う。ただ、くれぐれも他の人の迷惑にならない様に行う必要がある。