稲田防衛大臣の辞任
稲田防衛大臣が辞任した。この人が能力がない人であったことがよく分かった。安倍氏が次の総理大臣候補とまで持ち上げていた理由は、アベ政権のイメージ戦略の一つだったのだろう。イメージというものは剥がれてみると哀れなものである。また危険なものである。大臣になるという以前に、衆議院議員になるような人ではないと思う。人を代表するような役割を認識できない人であった。せいぜい籠池氏の顧問弁護士である。アベ政権は古くからの芝居の一座である。日本をどうにかできるかのような、演目を演じようとしている。ところが具体的な方策など持ち合わせてはいない。一応受け狙いの「アベノミックスで経済を良くする」を決め台詞にしておけば、観衆を引き付けられると考えたのだろう。そして、祖父から受けついた憲法改定の思いを掲げてきた。その演出はなかなか巧みで、稲田氏を防衛大臣にすることで、日本会議も、一般観衆も、大向うを唸らせ、拍手喝さいになるはずだったのだろう。
ところが、稲田氏は役者失格で舞台を降りる。アベ氏も同じであるが、決められた台詞を演じている間は、落ち度はないのだが、自ら台詞を作りしゃべることは、大根役者なのだから無理なのだ。アドリブの効かないタイプの役者なのだ。制服組幹部からの「報告を認識が出来なかった。」これはポロリと出た本音。台詞としては「記憶にない。」小泉劇場は田中真紀子外務大臣の辞任で、劇場そのものが崩壊した。今度もそうなりそうな気配である。そもそもアベ芝居は憲法改定を目的とした一座だ。稲田氏の無能をさらけ出した以上、先に進むことは無理だろう。そう思いたい。防衛省を束ねる、肝心の大臣がその役割と意味を理解できていなかったのだ。防衛大臣に重要なのことは、日本の安全保障の責任者である自覚だ。当然省内を完全把握していなくてはならない。辞任に当たっての言い訳が、「特別監察を実施したから、省内の問題点が明らかにすることができた。」である。大臣がしっかりしていれば、起きなかった問題であることさえ理解できていない。
武力というものは、クーデターを企てることも可能な組織である。完全に政府が把握していなくてはならない。それが文民統制の根本にある。国民の側に居なくてはならない。自衛隊は平和憲法を理解していなくてはならない。アベ政権が平和憲法をないがしろに拡大解釈している内に、自衛隊自体が法律の拡大解釈を始めたのではないだろうか。ジュバには戦闘はないと総理大臣が国会答弁しているのだ。出先の部隊も、戦闘がないという認識で統一しなければならない。今後はこういうことになる可能性が高い。安全保障の危機的状況である。現場の認識よりも、政治の認識が優先されたのだ。自衛隊は到底戦闘の現場に向えるような状態にはない。歴代の防衛大臣がこの自衛隊内部の、現実からかい離した空想的組織である実情を把握出来なかったであろう。実戦経験がないのだから、当然と言えばいえるのだ。日本の社会で暮らしていた普通の青年が、戦闘地帯にワープしたようなものなのだ。
防衛大臣の役割は、日本国憲法に示された武力を否定した理想主義を自衛隊がどのように生かすかである。自衛隊にある憲法による制限の意味を、前向きに評価し、自衛隊が平和のための部隊に成れるかである。駆けつけ警護など不要である。どれほど非人情と言われようとも、平和の為に中立的に一般の住民の為の支援を行う。あくまで平和部隊である。そして災害支援である。大規模災害の支援は国内においても、自衛隊以外にはできない役割となっている。防衛省の活動中心的な任務として、位置付けるべき内容である。安全保障の意味と範囲を見直すべきだ。地方自治体によっては災害対応が不十分である可能性は高い。災害が予測される中、のんきにゴルフに行って酒を飲んで寝てしまうような知事すらいる。防衛大臣は災害支援の先頭に立つ必要がある。そして文民統制である。憲法の理想から外れている、自衛隊の現状を十分に理解し、民主主義に基づく自衛隊の運用を考える必要がある。