日本国憲法70年。
日本国憲法は素晴らしい憲法である。世界に誇れる理想を掲げた憲法である。こういう素晴らしい憲法のある国に生まれた幸運を感じる。憲法が70年間の日本を支えてくれた。アベ政権は改憲に進むと主張している。勝手な言い草だが、その前提としてどのような国を目標にするか明確にしなければならない。この憲法がアメリカに押し付けられた憲法だからでは理由にもならない。民主主義もアメリカから押し付けられたのだから、止めた方が良いというのではなかろうか。本来の日本国と日本人というものはどういうものと考えればいいのだろうか。私は稲作文化の民族であると考えている。東洋3000年の循環農業によって作られた民族である。それが、明治以降大きく変貌をきたし、さ迷い歩く精神構造の中にいる。生き様を失い、目標を失い、価値観を金銭以外には置けない民族になってしまった。日本主義者と言っても、森友事件を見ればわかるように実は拝金主義者である場合が多々ある。安倍氏がアベノミクスと主張し、経済の建て直しを憲法改定の前提としたのは、いかにものごまかしである。
アベ政権の仮想敵国中国論に、何故乗せられてしまうのか。明治以来の脱亜入欧思想と科学技術立国にあると考えている。人間何といっても生活である。苦しい生活では困るというのは誰しも基本にあるだろう。明日の食べ物を心配しない暮らしがしたい。中国が豊かになるという事は、脱亜入欧の発想にしてみればあり得ないことなのだ。経済の豊かさと、西欧の科学技術導入が混乱している。日本人の中にあるアジア的な思想を、克服しなければならないものと感じているのではなかろうか。儒教的な思想、あるいは仏教的な思想と言ってもいいが、むしろ稲作文化の背景にある、自然宗教的信条とでもいうべき前近代的な日本人の土着の思想を、整理できていないのではないか。このあいまいさの中に帝国主義を滑り込ませ、なんとなくの合意が自民党憲法草案である。
日本という価値観を、明治日本帝国と考えているのが、アベ政権及び自民党保守派なのであろう。明治日本という形は天皇をグロテスクに崇拝する、それまでの日本人とは全く異なる世界である。列強に伍してという、闇雲のもがきが生んだ、遅れた帝国主義である。そこへ日本人がなだれ込んだ理由にも、確かに日本人の中にある、共同体思考法が支配した。お上を有難いもの、恩恵と考える江戸時代の儒教思想の影響もある。鎌倉、室町期の農村が形成されてゆく時代のダイナミックな共同体思想が、幕府に支配され主体性を失い、個人が弱まってゆく。そもそも稲作文化は開拓思想でもある。どうやって稲作を広げてゆくかは最新の水土技術である。稲作が縄文後期に日本に渡り、広がってゆく過程で水の管理技術というものが、暮らしを豊かに安定するものとして、支配者の技術として広がってゆく。これが、稲作を司る神官であり、技術者であった初期天皇家の権力構造なのだ。アジア的な、稲作文化に基づく集団的思考法が共同体的呪縛となって天皇家にはまつわりつく。
日本国憲法が個人の人権の尊重を第一として、国家に奉仕する国民を過去のものとした。しかし、国の為が無くなった時に、地域という共同体の価値観はすでに失われていた。個人としての日本人は何の為に生きるのかを、それぞれの努力で獲得しようとする途上にある。自民党憲法では、もう一度お国の為に生きる日本人像を描こうとしている気がする。権力者たちには都合の良い考えである。もう一度、明治日本のように日本国が一丸となって競争に勝ち抜ける国になるという事なのだろう。しかし、グローバル企業はすでに国というものを超えて動き出している。ソフトバンクの孫氏がトランプにすり寄る姿こそ、アベ政権のやっていることであり、日本の未来を表す姿である。日本がアメリカファーストになっている。憲法の改定を考える前に、日本がどこを目指すのかを正直に示すべきだ。アベ政権は日本をどんな国にしたいのかを掲げるべきだ。そこに触れずに、憲法改定だけを主張するのは国民を欺くことになる。