私絵画を考えてみる。

   

描いている途中の状態。何故描いた絵に良くないものと、良いものがあるのだろう。そもそも描いた絵全てが同じなのではないかと時々思う。

言葉の定義はなかなか難しい。赤い色と言っても百人百様である。それをJIS規格何番の赤というのは正確に見えるが、絵における色彩としては何の意味もない規格である。絵画における赤は「マチスの赤」のように大きさでも、隣にくる色でも違ってくる赤である。研究論文であるとか、哲学の論議の場であるなら、言葉は厳密な定義の下に使わなければならないだろう。あくまで笹村個人の公開日記としての発信なので、言葉の正確性よりもその時の頭のなかの世界に拠っている。当たり前だがここに書くことは私のブログとしての責任の範囲だ。私にとってブログは、自己確認である。私の赤を書いて居るだけのことだ。だからこそ絵は車の塗装とは違う色彩の魅力がある。私絵画も発表しなければならないと思っている。発表して意見を聞きたいと思っている。私絵画という言葉は私小説から思いつき、私が作り出した言葉だ。私小説だから発表は無用というのは間違った考えだろう。私絵画というのは、自分のことを描いた絵のことだ。自分の内部世界を描く絵のことだ。これからの絵の役割はそこにあると考えている。

だから、私絵画は発表もする。批判も受ける。そしてブログという物も私の内部世界だ。これを公表する。公表することで自分が明確になるという事である。批判も受ける。自分の頭の中で考えていることを、自分なりの言葉化する。これが重要だと思っている。今このように書いたことは頭の中にあった、言葉を文字にしたことだ。文字にしたことで、自分自身の考えていることが明らかになる。どんどん綾がほぐれて明確化してくる。その時には言葉の定義が人様に通じないようでも困るが、厳密化までの正確性は期待しない。正確性を要求してしまうと、言葉のほつれ、思考のほつれが時に、ほぐれないどころか、さらにこんがらかる事がある。思いついたまま書く。毎朝書くの文章は平均1時間ぐらいである。早ければ20分ぐらい。長いと2時間。絵を描くという事と密接につながっている。アベ批判を描いて何が絵に繋がるのかと、いう事になるが、自分の中で繋がっている。繋がるようでありたい、自分のすべての絵でありたい。(こういう書き方が不正確な文章である。)

デッサンが狂っているという意見には意味ある。ただ、デッサンがおかしいという言葉は発する人間がどのような美術の観点を持っているかが分からないければ、その意味を受け止めようがない。この人がデッサンがおかしいという時はこういう意味だと、言葉を理解するにはその人のことが分からないとならない。言葉は私なりに一定に使っているつもりであるとしても、揺らぎは当然ある。自分の頭整理なのだから、自分になりの一定性は必要である。私絵画という造語も、何度も定義を繰り返し書いている。定義することで自分の絵の意味が明確になるからである。ただその部分を読んだことのない人にとって、一般化していない言葉を使い理解できないという事はあるだろうが。絵の発表という事はそういう事だろう。一般化していない絵の描き方を了解の上で、交流するのが絵の発表だ。そうして新しい絵画は生まれてきたのだろう。だから私絵画らしい発表の方法を「絵を語る会」で摸索している。

私は次の時代の芸術の意味は、「私化」だと考えている。私化も今自分の中で出てきた言葉だが。私の使い方とは違う意味で、社会的には使われているのだろう。芸術が社会を変革する手段であることが終わってゆく時代を生きてきた。絵画は社会という対象に向けて表現するという事では力を発揮できない。むしろ、自分自身に対して、私の形成に絵を描くことが役立つものだと確認をしてきた。また、絵を見ることが自分の形成に役立つ。私が生きるためにこそ絵を描く意味が重要になってゆく。私が私の考えを私の責任の上で、公表するのは民主義社会の上では必要なことだと考えている。それで、毎日何かしら書くことにしている。絵を描く。私絵画を描く。そのこととブログを書くという事は私の中ではかなり似ていることだ。

 

 - 水彩画