絵を描く矛盾

   

この絵はこの後だいぶ変化してしまった。このあたりが良かったか。中央上あたりに茂みがあり、それを入れた。入れなければよかったのか。入れて絵としては悪くなったのだが、良かったことなのか。ここが難しい。良い絵を作っている訳ではない。どちらでもいいような、どちらも違うような。

自分今までの生き方を思い返すと、矛盾に満ちている。いちいちに整合性がない。生前整理を続けていてそういう事を確認した。捨てるものが実はついこの前まで必要なものだった。捨てるという事で自分をそぎ落としてゆくという事は、自分がやせ細ること。それでも、それでも捨て続けている。それぐらい自分を肥大化させて生きてきた。やりたいことをやることで生きて来ているから、こうしてお化けのように肥大化をしたのだろう。これを今度はそぎ落とさざる得ないという事は、寂しいことである。寂しいが突き詰め無くては面白さも、分からない。時間がもう限られている。あと何年という中では、あれもこれもという訳にはいかなくなっている。止めるという事も考えなくてはならなくなった。さて筆を捨てられるだろうか。三線を捨てられるだろうか。パソコンを捨てられるだろうか。道具が私を形成している。

好きなことを見つけることが大事だと、子供の頃父から言われて、その通りに生きてきた。今でも好きなことを探しているような気がする。それはそれで幸せな今までである。岡本太郎氏は芸術は最後には指さすだけでいいと書いた。何故、指さすだけでいいと言うところまで思想を純化した芸術家が、人類の進歩と調和などという能天気な祭典に浮かれてしまったのだろう。日に日にその意味は明らかになる。岡本太郎氏の著作もある。なかなか面白い指摘がある。沖縄に関する縄文文化の指摘は鋭いと思う。あの太陽の塔と縄文の土偶とではその文化レベルが違う。絵を描くという事は楽しいからやっているに過ぎない。絵を描いて居てただ楽しいだけというのでは、恥ずかしいようであるが、絵を描く時間が最も充実感がある。絵を十分描いた日は、実に気持ちよく眠れる。良く生きるという事が、命の目的であるとすれば、絵を描く時間こそ生きているようだ。

絵を描くという事は矛盾そのものだ。命は単純明快で、矛盾はない。人間も命ではある。私はこの与えられた命を、十二分に味わいたいと思う。こだわる必要は全くない。名人伝の世界では、その到達した世界では、生きてきた行も忘れる。禅の世界でも、何か悟りを示すという事はない。物化するような世界である。業に結果を求めるとすれば、それは自己矛盾となる。安心立命すればそれでよし。全てはその人自身の問題となる。他人の入り込む余地のない世界。人の為にというところから、最も遠いいところにある世界。それを求めて絵を描くとすれば、描かれた絵は何なのだろう。画道というような過程なのだろうか。絵というものを価値あるものとしない。いずれ捨てるもの、消え去るものと考えた上で、絵を描く。生前整理というものはそういう事のようだ。いま生きるという事の充実。絵を描く、見えている世界を見抜こうとする。それだけなのかもしれない。

生きることは別段帳尻の合う事でもないのだろう。様々に揺れながら、自分というものを極めようとする。一日一日の生きるを確認するために絵を描く。絵というようなものに自分というものの価値を見つけない。良い絵を描く人間だから価値があるという事ではない。むしろ日々絵を描くという事の行為にどれほどの、確かさと充実を感じられるかという事ではないか。その充実に何か違いがあるという事は、10年前と今ではどこか違う気がするのだ。どこか違うという、基準点の確認のために絵があるようだ。自分の絵に対する深まりというようなものが、絵によって確認できれば、自分の生命がより自分らしい時間を生きているという事になるのではないか。自分の命と向き合い、生きることを深く感じることが出来れば、それだけでいいという事のようだ。絵を描くという事は矛盾を矛盾のまま表現できる。

 

 

 - 水彩画