将棋・相撲・絵画、前近代的組織
伝統的な組織は大きな失敗を繰り返している。芸術分野の組織では代表的団体日展が、不祥事で改組し出直し。大相撲は八百長と暴力行為で開催の中止。日本将棋連盟はソフト不正疑惑で人格者谷川会長の痛々しい辞任。日本的な組織作りをすると、同じような失敗を繰り返す。将棋でも、相撲でも、絵画でも、それぞれの仕事においては自信満々な人が組織の中心を担う。将棋など頭の回転に自信がある人なのだろう。仲間に疑いが向けらた。その疑いだけで出場停止にしてしまうという、とんでもない処分をしてしまった。代表の谷川会長は責任を取って辞任した。しかし、仲間に対して明確に疑いを表明した、久保、橋本、渡辺の3名は全く責任を感じていない態度である。仲間の一人をカンニングしたという冤罪を世間に表明するという事が、人間として問題があることに自覚がない。冤罪ほど痛ましいことは、他にはないという事が分かっていない。
相撲取りの場合、なかなか組織運営が難しいかもしれないと、失礼ながら感じる人が多いいかもしれない。しかし、将棋棋士も全く同じである。将棋が強いという能力と、組織運営という意味はまるで違う。この違いが分からないから、谷川氏の前の米長氏もひどい運営をした。もっともらしいへ理屈を述べるが、結局は勝手読みである。気に入らない人を理由なく除名処分にして、名誉回復の復帰となった。ソフトを見ているのではないかと疑いが上がった時に、即座にスマホの持ち込みを禁ずる。そして過去の対局の棋譜の疑われるものを調査すればよかった。静かにそれだけをすればよかった。そして、棋譜が疑わしいい結果が出た時に、スマホを調べればいい。絵の団体の場合、芸術は何が良いかわからないというところが味噌である。お互いに持ち上げて、日展理事だ、芸術院会員だと、まさに、仲間で堂々と談合をしているわけだ。世界的に見れば井の中の蛙である。何しろ一番目立っていたあの平山郁夫氏は早くも世間で忘れられ、世界はもちろん世間の評価も日に日に薄くなっている。談合の延長線が組織運営だから、おかしくなって当たり前だ。
このように日本の古い形の組織が運営で失敗を犯すのは、組織運営は民主主義でなければならないという事を理解していないからだ。民主主義が嫌いで、偉いと思い込んだ人は勝手気ままの独裁を当たり前と考える。絵描きなのだからそんなに悪いことをする訳がない。そんな言い訳をしたので驚いたことがある。たぶん日本の企業もこの民主主義が苦手で、そんなことを言っていたら、競争に負けると考えているところが多いいのではなかろうか。しかし、そんな考えが通用し無くなってきている。自由に発言できる空気がない企業は生き残れないのではないだろうか。企業については単なる想像であるが。水彩人では運営は民主的に行うという一言を規約に入れた。組織は必ず民主主義的でなくなると予想したからである。その会の代表の絵に対して、出品者の一人が自由に批評できるかどうかでそれが分かる。
民主主義は面倒くさいものだ。埒が明かない。効率が悪い。時間ばかりかかって何も決められない。人望はあるかもしれないが無能な指導者が登場して、組織を悪くする。それでも、民主主義の方がまだいいのだ。人間を互いに尊重するという事は、最も重要なことだ。そうでなければ人は成長できないからだ。能力主義というのは1番を作る考えだ。2番では競争に勝てないと思い込んでいる。2番以下の大多数の人を能力不足の、努力の足りない人とする。負けたっていい。ダメでもいい。自分らしくあればいい。つまり大多数の人々は2番以下なのだから民主主義が良いのだ。少数の力のあるものには都合の悪い考えが、民主主義なのだ。絵画芸術は一人一人の描く人のものになる。見る人のものではなくなるという事だ。描くという意味に絵画の意味がある。それが私絵画だ。これからは絵画はそういう存在になると考えている。その為には、組織は民主主義だ。それ以外にない。