漫画の絵がリアルになった理由
漫画の絵がずいぶんリアルになった。そうでなければ、雑誌が売れないのだろう。世間的に言えば絵は上手くなっている訳だ。写真的上手さで競っているような漫画が増えている。この変化は漫画の世界も衰退期に向っていると考えられる。私の子供の頃の漫画は、つげ義春さん、赤塚不二夫さん、秋竜山さんとか下手なところが良いという人が大半だった。赤塚さんなど、右手が疲れたので、しばらく左手で書きますなどと、よれよれの漫画を描いたこともあった。しかし冒険王などにはリアル漫画もあることはあった。面白いと思わなかったと思う。当時もアメリカの漫画はやけにリアルでつまらなかった。空きのない漫画だった。日本にまだ、漫画という現実ではない絵空事の世界を楽しむ、文化があったという事だろう。下手な漫画を楽しむためには、文化が必要である。書き手と読み手の間に共通の素養が形成されていなければ広がらない世界。
その盛り上がった時代が江戸時代。浮世絵は販売用のイラストのようなものだ。版元が競って売れ筋を探していた。その結果が写楽であり歌麿である。江戸時代の人はリアルな西洋絵画を見て、影を汚れていると見えたそうだ。今も横山キムチさんのような下手派の人も居るが、流れはこっちにあるようではない。ギャグマンガは下手な方が良いという意見もある。そういう下手の意味ではなく、全ての漫画が自分の世界を持っているところが面白かったのだ。下手という言葉の使い方が違うのかもしれない。手塚治さんだって、横山隆一さんだって、上手い漫画家ではない。そもそもうまいマンガなど存在しなかった。存在できなかった。ヘタウマ文化というのが80年代に一時代あった。ウマウマは嫌らしい。ヘタヘタは論外。ウマヘタは最悪。そしてヘタウマが面白いという時代。湯村輝彦、渡辺和博、蛭子能収、根本敬、みうらじゅん、しりあがり寿らが牽引と書かれている。
これは美術の領域にも影響していた。現代美術のその後の流れのように段ボールアートが注目されたりした。今時の現代美術は工芸作品風の装飾で生き残っている。ヘタウマ時代は最後のあがきの時代。「下手は絵の内、上手いは絵の外」と言ったのが文化勲章を断った熊谷守一仙人。私も自己弁護に、下手だっていいと言う主張にこの言葉を使っていたが、実は「上手い絵画は絵ではない」という強いメッセージだったと後で気づいた。しかし、上手いは絵ではないと共通に認識できるためには、江戸時代のような共通文化の成立が必要になる。価値観の喪失が起きている時代では、社会共通の文化的な土台が失われている。梅原龍三郎が良いなどと言ったところで、若い人で理解できる人はほとんどいないのではないだろうか。上手いのか下手なの判断不明の人が明治以降の日本洋画の最高の芸術家として文化勲章を受章した時代があったのだ。日本文化に分断が起きている。もちろんそれは社会全体に起きている分断が、文化に表れたものに違いない。リアル漫画の出現はそうした、文化衰退の末期現象の表れではないだろうか。
絵画は共通価値から、描く行為に存在意義を移し始めている。リアル漫画も分断社会にしがみ付いた形で生き残っている。それはリアル絵画と同じ現象である。社会の中での存在をかろうじて探しているのだろう。しかし、それは分断の中で起きた、唯一のリアルという誰にでもわかる価値。リアルという即物的な価値観である。そのこと自体が時代の衰退の表れと考えざる得ない。リアル漫画では自己探求にはなりにくい。リアル漫画は上手いという事にしがみ付いているので自分の世界観の表現が困難になっている。 絵画は描くという意味に深く入り込む必要がある。絵で何をするべきかと言えば、絵は自分の見えている世界を描くものだ。見えているという世界の意味を探るものだ。描くことによって自分の生きるを発見することだ。描くことによって確認することだ。見えているものを確認することを通して、自分というものを知る。絵を描くという事は、自分が本当に生きるという事を探ることだ。それが私絵画ではなかろうか。