みんなで貧しく
上野千鶴子さんが平等に貧しくなればいい。と中日新聞に書いて批判をされている。確かに、炎上と言えるような暴言の批判がネットに渦巻いている。上野さんの思うつぼだろう。まともな批判も埋もれてはいるのだろうが、前向きな意見は少ないように読んだ。上野さんの貧しくなる論は前向きな主張なのだと思う。その意味の議論に広がってゆかなければ意味がない。この低級な批判姿に今の社会の階層化が良く表れている。資本主義による競争が、限界に近づいている。この認識で、評価は変わるだろう。資本主義が人間を壊し始めているのではないか。能力主義が人間らしく生きるという事をゆがめ始めている。こういう提起なのではないか。貧しくという言葉が刺激的で、注目を浴びたのだろう。言葉を変えて考えれば、もう少し本質的な議論に深まるのではなかろうか。人口減少が貧しさにつながるという発想は、アベ政権と同じ土俵にいるのは残念だと思う。人口減少がGNPの減少になるのは確かだが、個人所得の減少になるとは限らない。まして貧しさとは別のことになる。
上野千鶴子さんは金沢の二水高校出身である。私と同世代である。そういう事もあって、なんとなく注目はしてきた方である。今回のテーマの立て方もいかにも、らしい言い回しだと思った。貧しくなるという言葉が、今の社会では恐怖として蔓延する。金銭シカ価値観がない社会だからだ。この階層社会の急所を突いたのだと思う。格差社会がじわじわと広がる中で、下層に落ち込む不安。また下層に所属していて、上昇志向にもがく人々。その淀んだ空気をうまく刺激したのだろう。貧しさとは何か。豊かさとは何か。このことをじっくり考える機会にしたい。分断の不安の中で生きている大半の日本人には、貧乏で我慢しろ。と言われたような気になってしまうのだろう。
自給自足的生活者の収入は生活保護世帯と変わらない。しかし、最も豊かな暮らしを享受している人たちである。安心立命の暮らしである。お金とは別の日々の暮らし自体が豊かなものになる。水道の水と、スーパーのペットボトルの水と、高価な何とか水と、谷から湧き出る水と、豊かな水とはどれかである。飲めれば同じではある。しかし、私は生きた水が良い。それこそ豊かな水だと思う。飲んでしまえば同じであるが、やはり湧水を飲める暮らしを豊かな暮らしだと思う。水道であれ、ペットボトルであれ、有料である。湧き水は無料の水だ。まさに貧しくとも飲める水である。自然の恩恵を受けて、お金とは別に生きる。生きた自然の水が飲めるという事が豊かなのではないか。富裕層の人が魚沼産のコシヒカリを食べて、イベリコ豚にトリフォーやキャビアを食べる。これが富裕層の贅沢な豊かさ。自給暮らしの豊かさは欠ノ上の自給田んぼのサトジマンを食べて、笹鶏の卵と山のキノコと山菜を、今ならブロッコリーを食べる。
どう考えても私は豊かな暮らしを送っている自覚がある。日本人は競争を捨てれば豊かな暮らしに、いつでも戻ることが可能なのだ。等しく貧乏になる覚悟さえ持てば、素晴らしく豊かな暮らしを送ることができる。すでにその兆候が日本全国に広がっている。農地が誰にでも使える時代になった。家も準備するから来てくださいという、地方自治体まで存在する。感謝されて豊かな貧乏暮らしができるのだ。人口減少のお陰である。こんな豊かな国はあるだろうか。考え方を少し変えるだけのことだ。等しく貧しい暮らしこそ、自給自足の豊かな暮らしへの入り口である。豊かさには実はもう一つある。心の豊かさである。トランプさんは貧しい心の人に見える。少しも心にゆとりがない。一休禅師になることだろう。心豊かに日々を送るためには、文化に対する教養が必要である。絵を見て理解し、喜びを感ずることががきるか、できないかには、ゴルフは下手でも文化の素養が必要である。こちらの貧しさは、ちょっとひどいことになっているように思う。