沖縄を考える
沖縄のことをもっと語るべきだ。黙っていることは差別をする側に立つことになる。差別が起こる原因は社会に格差が広がり、分断がうまれてきているからだ。分断され差別された集団は、より差別される集団を作ろうとする。分断は敵を作る。本来分断の根源である格差。この格差を生んでいるのは能力主義である。自由な競争で敗れた弱者。この競争自体が差別なのだ。人間は能力はさまざまであり、それは個別性に過ぎない。それぞれの固有性に基づいて十二分に生きることが大切なだけだ。赤ちゃんは歩けない。老人になれば身体は衰える。それは誰でも受け入れて、助け合って生きる以外にない。有能な人も尊重されなければならないし、無能の人もそれなりに大切にされなければならない。資本主義という競争原理を追求した考え方も、ITの発達により、その限界が一気に近づいた。弱者と強者の固定化。強国と弱小国との不可能な競争原理の押し付け。
資本主義社会が限界を予感させるがために、差別意識が膨らみ始め、その矛先を探し始める。韓国社会は日本に先んじて、競争主義を先鋭化させた。その結果社会は分断が起こり、不安定化している。日本もその後を追っている。余裕のない社会に入り始めた。どこか血祭りになるものを探し続ける。朝鮮、中国、そして沖縄。朝鮮や中国が、日本批判をする原因も、社会にある分断の結果なのだが、日本の社会は10年前までは、その批判を受け入れる余裕があった。今では、同じ土俵に立って、ヘイト行動が起きる。日本社会の余裕が失われてきていることが原因なのだろう。富裕層の成立。大企業の国際競争への偏重。アメリカへの投資に泡を食う大企業の姿。日本を捨てても、勝ち馬に乗ろうという事だろう。日本にこだわっていたら、利益が出ない。利益以外の価値観を失うのが、資本の原理。
石垣島には瑞穂の国日本の息吹が感じられる。それは田んぼにだ。今回、名蔵の田んぼを、日がな一日眺めていた。欠ノ上の私がかかわる田んぼと何も変わらない田んぼがある。それは、水の回し方であり、畔の作り方だ。田んぼを取り囲む森の姿。田んぼに対する思いが信仰のように漂っている。早朝、まだ水を入れ始めた田んぼの水の様子を見に来る人がいる。一回りして、畔の水漏れを見て帰る。当たり前の姿なのだが、それは毎朝お参りをしているようにも見える。その人は、実に生き生きと誇りを感じさせて田んぼにいる。田んぼは尊いものだと改めて感じさせる。日本教の神様は田んぼなのだ。田んぼ仕事は神事であり、祭りごとであり、生きるという事の修養の場になる。この日本人の姿を皇室は継続している。だから、日本の象徴なのだ。そうした田んぼの心が残っているのが石垣島だ。石垣島こそ日本の故郷だ。
能力主義が差別主義であることを認めることだ。沖縄差別が起こる原因は、日本人が捨てたふるさとを感じるからではなかろうか。競争から離れ悠々と暮らす人を見たくないのだろう。都会に出てすべての情緒を捨てて、ひたすら身を削り競争に明け暮れているにもかかわらず、余裕がない暮らし。格差の底辺に置かれる現実。富裕層への上昇の見込みの喪失感。戦力外通告を受ける現実。瑞穂の国では、能力差はない。それぞれに応じた働き以外にない。田んぼにはそうした大きな許容力がある。力のあるものは力のある役割、知恵のあるものは知恵のある役割、根気のあるものの役割、何もできないが赤ちゃんの笑い声の役割。人間はそうして、協働することで十分に生きることができる。まずはその原点を忘れないことではなかろうか。石垣に感じられるその余裕力を自分の自給生活に取り入れたい。