いつでも何度でも
「いつも何度でも」という歌がある。千と千尋の神隠しの挿入歌だそうだ。映画を見なかったが、この歌はなんとなく聞いて耳に残ってはいた。しかし歌詞まではよく分かっていなかった。ところがこの歌詞がすごいものだという事を、偶然知った。いまさらのことで恥ずかしいことだが、耳に届いているという事と、唄としてしっかりと聞いてみるという事は違う。この歌は死というものを巡る歌だったのだ。しばらく前に死をテノールで歌い上げるという、おかしな歌がはやった。お墓の中にはいないで、空の風になっているというような歌だった記憶がする。これは、欧米人の死生観だなと思って実感なく聞いていた。死というものを妙に美的な世界を歌い上げてしまう。すぐその先が天国。日本もこれからはスピリチュアルな世界が、強まってゆく切迫感がある。
本来死生観というものは、民族が何千年の歴史の中で安心立命として作り上げる幻想である。ところがそうした近代以前の死生観は、明治以降薄れ、絶え絶えとなり、現代社会ではほぼ消滅している。ご先祖様がお盆に戻ってくる訳にも行かないくらい引っ越しを重ねている。生まれた場所で死ねるような人はむしろ少数派であろう。生まれた場所を離れると死生観は変わる。自分の死を親、そして祖先の死とつなげて考えることは出来なくなっている。個の成立という事はそういう事なのだろう。自分は個人的に死を理解し、受け止めなければならない。そこには、参考になる、過去の事例がない。しかも、現生が末世と来ている。現生が天国のようであれば、まだ死のことは遠く、はるかなことであるが、日々死を見つめて生きなければならないような、死ねば楽に成れるという人が多数存在するような時代である。そうであろうがなかろうが、ありとあらゆる人に、死は必ずくる。
こんなに苦労をして、努力をして、頑張って、誠実に生きているのに報われない。日々生きている懸命なものは、来世に花開くためだという考え方がある。そんなことは一切考えない方が良いと思っている。今以外に何もない。今日の今が過ぎ去り、失われ消え去るように、すべては失われる。次の転生など今ある自分には関係ない。馬鹿なすり抜け理論に惑わされないことだ。何かに報われるため、救われるために生きている生き方であるから、そう考えざる得なくなる。そういうごまかしでは安心立命はない。来世などという妄想の中に生きている限り、日々刻々と過ぎ去る自分の生命を味わうことは至難。真っ暗闇の中を真っ黒な自己という塊が走り抜ける。その生きているエネルギーを確実に味わい、確認することだ。死というもので失われものが生命である。来生を考えることにある、まやかしの救い理論。現生のあまりの非道は、報われたと、そう考えざる得ない哀れ。
全てが死によって消え去るのが命。そっけなく、恐ろしく、無残なものであるが、それを受け入れざる得ない生命。無常観。絵を描くという事は、その無常の確認の作業のようなものだ。描けども描けども達することのできない。それでもひたすら描くことの先に、発見があり、前進がある。絵画としての成果など見向かれることはない。消え去るのみ。それでも描くことで生きるエネルギーを画面に印すことになる。絵を描くことによって自分の安心立命を得ることはない。いまを生きているという事に切り込んでゆくことが描くことなのだろう。歌をある人が歌うことで、心に届くということが起こる。上手いだけでは心には伝わらない。その歌をその人のものにできるかどうかなのだろう。私は、この歌詞を自分らしく歌えるのではないか、と、大それて思った。あり得ないことだが、なぜかそう思った。そこで、三線で唄ってみている。
作詞:覚和歌子(かく わかこ)
「いつでも何度でも」
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心踊る 夢を見たい
悲しみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたびひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
ラララララララララ・・・・・・・・・
ホホホホルルルル・・・・・・・・
呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう
悲しみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから