ガソリンの値上がり
ガソリンは月に3回くらいは給油する。その度に3,500円くらい払う。その他、草刈り機やトラックターの燃料など、月一回ぐらいは買いに行く。出来るだけ使いたくはないのだが、結構使ってしまう感じだ。自給生活の生計の支出の中では小さいものではない。この3,500円が3000円になったり4000円になったりする。最近また値上がりを始めた。石油価格の上下動が世界情勢に繋がっていると感じさせる。ソーラーパネルで発電をしているので、総体としてはエネルギー自給はしているつもりだ。これがせめてものいい訳である。出来るだけエネルギーを消費しない暮らしが良いとは思うが、軽トラやトラックターを使う事は、エネルギーの総需要としては合理的だと考えている。例えば軽トラを使わないで、荷物の移動をするとすれば、10倍以上の時間と労力がかかる。これでは実際的ではない。30年前には水を山の上まで担いで上がる生活をしていた時期があった。山の上り下りが暮らしの負担として大きすぎた。50ccバイクの免許を取り、購入したときどれほど有難いものであるのかを実感した。
ガソリンの時代が終わろうとしている。産油国が増産を続けたので、ガソリンが値下がりしたと言われていた。しかし、それはエネルギーが石油だけに依存しているとした過去の時代の話だ。もう世界は脱石油に向っている。もちろん高いエネルギーである原子力ではない。薪だって同じことだ。ガソリンが高くなり過ぎれば、使えないのだから、薪生活だって選択枝になる。バイオ燃料であろうと、風力であろうと。単純な我慢生活であっても、暮らしのエネルギーは省エネルギー化し、多様化方向になる。ガソリンは一定以上に高くならない時代に入っている。そのうち、石油は枯渇するのではなく、使わない時代になる。石炭と同じ運命をたどることだろう。再生産できないエネルギーは基幹エネルギーから外れてゆくのが当然のことだ。
再生可能エネルギーへの転換を早くやった国が、次の世界のリードする国家になる。資源国が有利という競争はそもそも公正ではない。日本が最も得意とするはずであった、再生可能エネルギーへの転換が遅れている。原子力にこだわる姿勢に、そのみじめさがにじみ出ている。資源のない日本という国は技術立国しかない。再生可能エネルギーこそ、その技術力が問われる分野だ。日本が最も力点を置かなければならない分野であろう。ところが、フクシマ原発事故以降、本来であれば全精力で再生可能エネルギーに転換しなければならなかった。国民の大半がその転換を願うという、またとないチャンスであった。しかし、日本人にはどうもその能力と気力が失われているようだ。原発事故という惨事を受けて、日本は転換する大きな機会を得た。にもかかわらず、政府は原発にしがみ付く以外にはできなかった。
いま日本国民は原発の怖さを忘れ始めている。敗戦を忘れて、又再軍備を希望する人がいるように、人間というものは実に愚かなものだ。サウジアラビアのことを想像してみるといい。石油でたまたま豊かな国になり、この先どうなるかである。人間にとって大切なことが何か。自分の足で立つという事ではないか。たまたま自分の土地に資源が出たからと言ってそれに依存して暮らすことは、一時のことだ。日本という国は食糧自給もできない国であり続けることになりそうである。石油を売って食糧を買う暮らしより。その土地で自給できる食糧に応じて、人口があるという事が健全な姿だ。江戸時代のように、循環型社会を作り出すことが、世界の人類の幸せな未来の形だ。それを提案する能力がある国が日本ではなかろうか。これは幻想なのか。原発輸出を総理大臣がトップセールスして歩くような国は不幸を振りまく国だ。