あと10年の希望

   

多分、たぶんだけど、その時々に、なにかをやりつくそうとしてきたのだ。やりつくす以外に生きる充実が得られない、と思ってきたのだ。やりつくすだけの甲斐のあるものを探してきたのだと思う。それは絵を描くにしても、やりつくす絵を探していたという事。どこまでやったからと言って、やりつくした気持ちにはなかなか成れない。それでも近年はそれなりにやりつくした感がある。体力と能力の衰えによるところが大きい。つまり疲れ切ったのでそれ以上やれなかったことが多かった。若い頃は寝ないでも絵を描いたが、今はすぐ眠くなり寝てしまう。それでも今年は衰えたなりに疲れきるまでやれたというところがありがたい。一つには、水彩人展への絵の出品。もう一つが自給農。この30年この2つを中心にほぼ同じことを繰り返してきた。同じことをやっているのは変わらないのだが、ここへきて、やることがはっきりしてきた。年齢的に残りがそうないという事で、やれることを限定せざる得なくなった。その結果どうしてもこれだけという事に絞ってきた。

やりつくした感があるのは、やることがはっきりして来たという事にかかわっている。やることとは生きる目的という事だろう。生きる目的などと大上段に書くとまたわかりにくくなるが、やりたいことをやりつくすことさえできればと考えている。絵を描きたいのだから、絵を描きつくすことだけになる。それ以外のことがどうでもいいことになってきた。今のところ、畑や田んぼをやることが絵を描くこととは絵を描くために必要なことだ。逆から見れば世間的なことには、ずいぶん手抜きをさせてもらった。地域の運動会の日には田んぼの稲刈りをしていた。川掃除のときは田植えだった。夏祭りの時は水彩人の集まりに出ていた。久野の里地里山の会や有機の里づくり協議会のことでも、田んぼや畑に直接関係のないことからは、離れようと考えている。今までの主張や成り行き考えれば、そんなことは出来る義理でもないのだが。顰蹙は受け入れる。

自分のやりたいことに集中しなければ、年齢的に余力がなくなったという事である。またこの歳になれば、世間体は関係が薄くなる。勝手な奴だと嫌われることが平気になった。そう決めているというようなことではないが、自然そうなってゆく。舟原の溜池のことも努力してきたことだが、役所の対応で腹が立ち一度はもうかかわらないことにしようかと思った。人にかかわるといつもこうなる。この後は見極めてかかわろうと思う。こうして非人情になれるようになって、やっと自分としてはやりつくした感を感じられるようになった。日々の暮らしにごまかしが無くなってきた。それは死ぬという事が実感としてそこに来たからだ。死ぬ以上他人のことなどどうでもいい。自分がうまれて死ぬ間に自分というものをやりつくしたいという思い。

しかし、一日にやり切れることが減ってきた結果、ずいぶんやり残しがある。以前より明らかに忙しい。今もあれもこれもやり残している。水彩人のホームページもやらなければと思いながら、やれないでいる。昨日、お願いしてまずはやっていただくことができた。三線の練習もやれない日が増えてきた。絵の片付けも何とかやり切ろうと思うのだが、まだ残っている。それでも、来年の春までにはすべての雑務を整理出来そうである。父は77歳で亡くなったのだが、死ぬ直前に片付くという事はないものだと言っていた。終わらない何かを受け流してゆくようにすると言っていた。それは私に言い残そうと話したことのようだった。やりつくす人生という事が目標であった。やるべきことを見つけて、それに集中することのようだ。あと10年絵を描いていたい。絵が描けるなら他のことはどうでもよい。いろいろ、申し訳ないことをしながら、絵を描かせてもらいたい。私にとって絵を描くことに、創造の苦しみのようなものはない。そのことも考えてみなければ。

 

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