絵で何をしようとしているか。
東京都美術館で開催する「第18回水彩人展」出品作の絵を3枚並べて見ている。いまさら描くという事もないのだが、眺めている。並べて眺めていて何か気づくことはないか見ている。描きたいものが少し見えてきた気がする。言葉では難しいのだが、自分がその中に居たいような場所を描きたい。という事に方向が定まってきている。絵として良いとか悪いとかいう事は二の次になっている。以前に考えていた、絵画というものとはだいぶ違うところに来た。自分が描きたい絵にどうすればなるかと言えば、画面にある動きをとらえているかどうかという事のようだ。普段風景を見ているときに、空間全体の落ち着きから、調和に繋がるようなものを感じる。その調和は色彩とか、構成のおもしろさとか、無限の要素があるのだろう。綜合的には動きの調和があるのかどうかが、重要な要素のようだ。静止している風景も見ていると力の関係が生じている。この動きがその場所の空気感につながっている。
その場所は里地里山の空気の中である。目的が定まってきたら、絵を描いて居ても、何をどうすればいいかが、少し落ち着いて考えられるようになってきた気がする。里山の描きたい風景に出会う。そしてそれを描いてみる。何枚もただ考えもなく描いて見る。そのうち、何故その場所が描きたくなったのかが自分なりにわかってくる。それがその場の動きが生み出している魅力だ。そこにある空気の質のことのようだ。ただそこに居たいというだけなのだ。それを眼は美しい景色として見ている。美しいものが自分を呼ぶ。その美しいは、なかなか厄介な美しいだ。美術の美は一筋縄ではない。風光明媚と言われるような自然美のようなものを描きたいと思う訳ではない。人間と自然の関わり合いが生み出した、調和である。大地がある。空が広がる。畑があり、家がある。そこに暮らす人の営みがある。その営みが生み出す空気である。
昔から、美と絵画は関係があるとは考えていた。ある時美と芸術は何の関係もないという現代美術の作家の意見を聞いて、議論をしたことがある。本当に関係があるのかないのかは今もって分からない。少なくとも美は出発点だと思っている。美は絵を描く始まりだと思っている。美を自分には価値あるものと考えている。そんなこと当たり前のことだという人と、芸術と言うものの現代的意味を理解していないという人に分かれるだろう。一般的な芸術論を求めている訳ではない。私絵画として、自分にとって美はどういう位置づけるべきものかである。そして、描きたくなる動機は美しいと感じているという事だと気づく。描き進めている時にはそれが美しいかどうかは考えていない。そこに居たいかどうかは、美しいというより、親和性のようなものだ。未来永劫の平和観という方がしっくりとくる。
里地里山は庭の延長である。人間が手入れを続けて作り出した景色だ。何百年作られてきた田んぼというものは、自然と完全な調和をしている。これが描きたく成る何ものかだ。調和は人為的に作り出されている。地形的にも水を溜めるという事は、必然がある。コンクリートで固めた田んぼでは到底描く気にもならない。それは形が空間に対して調和していないからだ。大きな土木工事をして、地形を改変するような無理が生じるので、動きを破たんさせる。里山は自然の力の前に圧倒されながら、かろうじて割り込まれた人為である。このつつましやかな姿が、絶妙な調和を生み出す。桃源郷という事になる。深山幽谷が理想郷ではない。人間の営みがなければ、描く気にならない。その意味でも庭の畑は面白い。庭というキャンバスに花があり、野菜がある。暮らしへの現前化と、美しい暮らしを楽しむ空気がある。この絵が何かになるとも思わないが。私自身の目指すところの確認にはなっている。