戦争をしないで済む方法
戦争が近づいている感じがして、圧迫感がある。尖閣諸島侵入の中国船に対して、「舐められてたまるか。毅然とした態度で対抗しろ。」などといきり立つ人間がいる。舐められていればいいのだ。人間というものの愚かさだ。東アジアの緊張が高まっているという事は間違いない。中国が武力的圧力を高めているという事も同感である。北朝鮮が核武装をし、日本を射程距離に収め、いつ破滅的な暴挙に出るかわからないという現実もある。そうした東アジアの緊迫感の高まる状況で、アベ政権はアメリカとの軍事協定を強化し、この緊張状態に対抗しようとしている。この対抗的姿勢がさらに近隣諸国の対抗心を高める結果になっている。負の連鎖の始まりである。ここで何か具体的な事件が勃発すれば、急速に戦争が近づくことになろう。そうした事件は、偶発的なものと見せかけて意図的に起こされる。強硬派が武力的な計画をするという事もある。日本全体には戦争の機運はないが、いつでも戦争の機運を高めることは可能だと考えた方が良い。
日本から先制攻撃をすることはない。という事は一面的には確かである。しかし、日本の自衛隊の一部が、テロ的な構想を立てないとも限らない。人間は多様な思想を持つ。三島由紀夫の盾の会だったか、自衛隊での蜂起演説と割腹自殺は、普通に暮らすものには茶番のように見えたのだが、当人たちは無様に真剣な訳だ。今の今も第2、第3の三島由紀夫はすぐそばに存在する。日本の為だと思い込み、戦争への道を進ませようという人たちは少なくないと考えておいた方が良い。それは日本だけのことではない。ヨーロッパ諸国やアメリカのトランプを見れば、武力主義の台頭ははっきりしている。こうした現状を踏まえて置き、どのようにすれば戦争を遠ざけることができるかである。
戦争というものの背景は経済から始まる。格差である。イスラム原理主義のテロ行為も、結局のところ世界経済の歪みが影響している。極端な貧困に追い込まれた者たちが、このままの格差の固定を許せなくなる。希望のない経済状態に置かれた社会が、冒険主義を生み、命を顧みない武力行為に活路を見出そうとする。世界経済が能力主義という正義を主張し、強者を強者として固定し、弱者が弱者であることを自己責任とする。経済は競争である。競争である以上軋轢が生じる。自分が競争に負けている者は、公平ではない前提があるからいつまでも弱者で固定されると考えるようになる。石油のある国と、石油のない国では競争が公平ではない。雨の降る国と、雨の降らない国では公平ではない。大きい国と小さい国では公平ではない。そしてずる賢く世界企業は国を超え、利益を生み出すために活動している。競争主義を克服し格差社会を無くす以外戦争は避けられない。
戦争にならないためには、譲ることである。7対3ぐらいのところで、相手は5分5分と感じるものだ。だから相手を我慢させるためには、8対2ぐらいに感じるぐらい譲らなければだめだ。それでも我慢した方が結局はいい。これをしにくいのが衆偶政治であり、選挙制度だ。選挙が戦争に導く。戦争で解決できる問題などなにもないことを自覚すべきだ。戦争は恨みを溜めるだけだ。積もり積もる恨みは、従軍慰安婦問題のような形になる。日本人は多分150年くらいは謝罪を続けなければならない。これが現代社会の現実である。尖閣では戦争を避けるべく平和的解決を計る努力をすべきだ。国際司法裁判所に緊急に提訴することだ。日本を軍事国家にしてはダメだ。アベ政権は日本の軍事化を目指すために提訴をしない。これを国民が良しとして、アベ政権の人気が高まる。戦争は近づく。中国がいかに非合法な国であるかを強調するための、軍国芝居が仕組まれていると考えた方が良い。