自給農業の記録

   

欠ノ上2番田んぼ

日々のことを記録するつもりでこのブログを書いている。過去の記録がなければ、農作業はどうにもならない。続けている間に少しづつ、「自給農業の記録」が貯まってきた。自給農業は平和な暮らしの実践だと考えている。自給生活については繰り返し書くことで分かることがある。思い込みが多いい。間違いもかなりある。昨年と今年では逆のことを書いて居たりする。しかし、その矛盾していることこそ、自給生活の実践というものではないかという気がする。そこにはまとめて整理してしまうと消えてしまう、自給の実践記録は意味が有ると考えている。ほとんど同じことを羅列するつもりが、案外にそうでもないという事を、自分なりに読み返してわかったところである。100人いればさらに100様という事になる。この乱雑多様極まりない中にこそ自給の暮らしが見つかると思う。

自給生活の日々の記録をホームページ化しようと考えた。稲の苗作りと言っても、自給的に行う場合、普通の農家のやり方とは違うものになる。味噌づくりが味噌屋さんとはまるで違うのは、当たり前のことだ。また、一人でやる場合と、みんなでやる場合もずいぶん違う。このあたりを試行錯誤してきた記録である。いつか本にまとめようと考えている。描いている絵を含めて自給生活が絵本のように出来上がればいいと漠然と思っている。これは死ぬまでには何とかやりたいことの一つだ。もし、作る前に死んでしまったら、意味が有ると考える誰かにまとめてもらうための材料だけでも残したい。実用的に考えれば本よりホームページにすれば、希望の内容にたどりつきやすい。レモンと調べれば、私のやったレモンの栽培から、加工法まで出ているといい。レモンの方が、みかんより難しそうだと思っていないだろうか。やってみればレモンは簡単な作物だ。そのような実践記録のホームページである。

自給生活全体を分かりやすくまとめれば、どのようなことをやってきたのかが見えて、私自身が次に進む参考にもなる。呼んでくれる人の参考という以上に、私の参考になると考えている。失敗の方が参考になることが多いいに違いないのだが、案外に失敗は書いていない。この点は格好をつけているという事だろう。もう少し失敗も書かなければならないと気づいた。今年、3人で並んでジャガイモを作った。並んで作ったら、私のジャガイモだけなかなか芽が出なかった。たぶん植える前の処理の違いが出たのではないか。他の2人とは違う生育をした。私は深植だ。深植にして余り土寄せをしないで済まそうとしてきた。土寄せをしないのは手抜きでもあるが、それなりに理由はあったのだが、聞いてみると皆さん私の4倍も収穫をしている。有機農業で1キロのジャガイモで15キロになる人が、田んぼの仲間に居て驚いてしまった。土寄せの意味も考え直さなくてはならない。土寄せを土壌の攪乱のように考えていた。

暮らしを豊かにするためには、音楽に触れるとか、絵を描くことも必要だと考えている。農的な暮らしの心は、創造性豊かなものだと思う。それは上手であるとか、下手であるとかという事と関係がない。より深く自分であるという事と自分の暮らしは離れがたいものだ。生きるという事全てが自分というものの表れである。先日、一緒に山北で暮らしていた甥が、盛岡の城址公園の前でジェラート屋を始めたというので訪ねた。その店が、全く説明のない店なのだ。看板もはっきりしない。何の店なのかは入ってもわからない。値段もわからない。近所に宮沢賢治が住んでいたという井戸があった。宮沢賢治風に、説明のないジェラート屋さんのような気がした。その店は説明がないというところにこそ、その人間が表現されていた。彼はジェラートの味だけを主張したいらしい。説明をしないでも来てくれる人に食べてもらいたいようだ。もちろんそんなことも言葉にはしなかった。

 

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