水彩画のサインについて

   

絵を描くと誰が描いたかの印として、サインを入れるのが普通である。学生の頃から何の考えもなく、そういうものだろうと---SASAMURA---と入れていた。その後---IZURU---に変えた。SASAMURAが長すぎるので、IZURUくらいの方が納まりが良いかと考えた。油絵を描いていた間はそれでもよかった。ところが水彩画を多く描くようになりローマ字のサインが絵に合わなくなった。どちらかと言えば日本画のような絵になっているのに、ローマ字では違和感がある。それで漢字に変えることにした。変えてはみたものの、笹村出と入れたのではこれがなんとなく、不自然な感じになった。何気ないしるしとして入り込んでほしかった。そこで、出という漢字だけでしばらく入れていた。ところがこの漢字でも重い。読めるという事が合わない。読めることで意味が出てくる。そこでいろいろ考え工夫して、三角形をふたつ重ねた出という字にした。出をそういう字体で描く先例があるのかどうか知らないが、三角の2段重ねは絵に納まる気がした。

これは筆で書いてみたものだが、上が開かないきれいな3角の時もある。微妙に言えば、上の三角の方が平べったくて、下の三角の方がとがっている。このサインにしてから落ち着いた。きっともう変えないことだろう。変えることはないだろうが、表面には書かないことになるかどうかである。今度このサインで焼き印を作りたいと、見積もりを取ってみた。なぜなら木鼓の楽器も作っているが、そこにもサインを入れた方が良いと考えるようになった。楽器もやはり作品だから作った印はいると思ったのだ。サインを入れるという事は、それなりの責任を示すという事になるし。自分という人間の存在証明ともいえるかもしれない。問い合わせたら字体を決めるから写真で送ってくれと言われて急遽書いて送った写真である。急いでいたので少し慌てたが、良いも悪いもサインだからあるわけではない。自分であればいい。自分が描いたのだからどんな字あっても、自分以外にはならないような気もする。3センチ角で価格は、印刻だけで12800円と返事があった。それ以外に数千円かかるようだ。悩んでいるが、頼みたい。

サインというものはそもそもいらないものだろう。アルタミラの壁画にサインはない。サインを見えるように書く、描くという事はどうなのだろう。サインを入れたことで絵が終わるという儀式のようなものでもあり、入れてバランスとして絵が落ち着くという事もある。中国画では賛とか、画讃とかいうものがある。書画一致ということで、詩の一節のような言葉と共に名前を絵の中に入れる。字は読めるものだから、絵をかなり変える。場合によっては後から見た人、あるいは所有者が自分の名前を加えたりする。ひどいものでは名前が並んで絵が良く見えないものまである。しかし、そこに皇帝の名前があったりして絵の価値が出たりする。影響が禅画にある。絵とは言えない。字ともいえない、妙な思わせぶりが起きて、たいていの場合は嫌味なものだ。武者小路実篤のものが良く見られた。しかし、中川一政氏の顔彩画には絵の中に詩が描かれていて、わざとらしくないいいものがある。真鶴で何点か素晴らしいものを見た。絵が良いとか、字が良いとかいう事を超えて、人間が素のままですごいという事でなければ、こういう絵は描けない。

サインに迷い、引っかかるようなところに、私の限界のようなものがあるのだろう。黙ってSASAMURAと入れていられなくなるところに、嫌味がある。さらに笹村出で納得いかなかった感覚に、嫌味がある。人目というものをどうでもいいと思いながら、誰かの目を忘れ切れないような、情けなさをサインという印が残している。昔、道玄坂にあった画廊で絵を売ってくれていた。加納さんという方で美人女優のような美女だった。美女だから絵が売れたのかもしれないというような方だった。画廊を止められて秋田に帰った。その画廊で飾られていた絵のサインをもう少し格好良く入れてくれという要求があった。そうしたら買うというのだ。すらすらとフランス人のようにというのだ。少しサインを変えた。確かに、わずかに売れるようになった。サインというのは販売のために必要なのかとその時に気付いた。

 

 

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