石原由紀子・石原瑞穂ふたり展

   

石原由紀子・石原瑞穂二人展を見せて頂いた。秦野の[ぎゃらりーぜん]というところだ。二人はご夫婦である。そしてこの2人展はどちらかと言えば、石原由紀子さんの個展に、ご主人の瑞穂さんがホローするというような企画になっていた。二人の作品はめったにないような、絵画作品であった。そして、絵が向かおうとするところは両者がずいぶんと感覚が違うと思え、最初は少し驚いた。飾られた絵が作品であるという事は当たり前のことのようだが、私にはとても珍しいことだ。少し説明を要するのだが、絵画が表現されたものになっているという事が作品の意味だ。当たり前のようだが、絵を沢山見ているが作品というものにはめったに出会うものではない。表現であるという事は作者の思念に基づいて、描かれているという事だ。ますます当たり前のことなのだが、この当たり前のようなことが行われている絵が本当に少ない。絵らしき装飾の再現である。自己表現がされた作品でないものばかりである。絵を真似て描いている絵ということだ。

さらに分かり難くて申し訳ないのだが、絵らしきものという、世間や時代が作り出した価値感に保証された絵らしきものを、やってみましたというのは作品ではないという事だ。絵画というものはまったく当たり前のことだが、創作物なのだ。世間が作った絵画らしき価値をなぞることは、お習字や代書屋さんの文字のようなもので書という文字表現とは違う。言ってみれば模写画という事だ。そっくりに移すのではないとしても、絵らしきものという価値に沿って、絵を作るという意味では習い事の範囲である。かつてないもの、自分の内なる酒井間に従うもの、そういう他から写し取るような価値ではない、絵画を発見しようというのが、作品という事になる。以前、石原瑞穂さんの作品は見せて頂き、その奥にあるものを探っているという事は知っていた。

石原さんの絵は、問題の解決ではなく、問題の在りかを指し示すことなのだろう。人間というものが問題の在りかだ。アカデミーというものは、人間を研究するところだと聞いたことがある。人間が存在するということを、浮かび上がらせようとしている。この探る危うさのようなものを描いている。はっきりとさせることで、見えなくなるという真実。というようなことが前回の個展の感想に以前書いた。改めて今回、同じ感想を持った。見えないという問題点を、この奥は見えないと描くことで指し示す表現。本当のことは見えていない。真実というものはなかなか厄介な闇だ。言葉ではこういう一言になるが、石原作品ではこれがもう少し複雑に、難解に行われている。

石原由紀子さんはまるでご主人と真逆の世界である。見えている以外のものは何もない。と言い切ろうとしている。これがまた、すがすがしいほどに徹底している。その奥にあるものを切り捨てることで、見えている表面性が、表現として徹底して示されている。切り捨てれば切り捨てるほど、実は奥にある世界が暗示されてゆくのかもしれない。一歩間違えば没個性という事になる。しかし、没個性に徹することで、自己表現というものを花開かせている。年代順に掲載された作品集を見せいて頂き、その想像が間違っていなかったことがよく分かった。作品が大変難しいだろう世界に歩み始めている。これ以上切り捨てられない表面性というものがあれば、それは実はご主人の模索している、その背景にある見えない世界の深い闇と、少しも変わらないのではないかという予感だ。そういうただならぬ世界の入り口にあるのかもしれない。

このブログは書くのが遅くなった。今日11日で会期は終わりとなる。

 

 

 - 水彩画