けんちん汁

   

正月というとけんちん汁を思い出す。おじいさんは建長寺で作られていた精進料理であり、本来捨てる野菜の皮などを使っていたと言っていた。特に正月だから豪華なおせち料理を食べるという事でもなかった。お餅をついて、雑煮がある。あとはけんちん汁ぐらいだった。それでも十分過ぎるほど満足だった。お餅をいれたけんちん汁が大御馳走だったのだ。暮れになると陽だまりでおばあさんとまだ中学生だった保子おばさんが野菜を切る。むしろの上に座り込んで、ひたすら2日間ぐらいは野菜を切るのだから、すごい量だ。それを寒風に三日ほど干しておく。夜は取り込んだのだろうか。あまり記憶にが定かではないが凍らせたのかもしれない。記憶にあるのは、大根、ゴボウ、ニンジン、サトイモ、白菜、長ネギ、すべてを細かく切る。お豆腐屋さんになった、後はこんにゃく、油げ、お豆腐。お寺で育ったおじさんが必ず持ってきてくれるのだ。正月誰も台所には立たず、料理をしないで済ますという事になっていた。

けんちん汁づくりはおばあさんの役割だった。まず干し野菜をいためていた。菜種油は絞った記憶があるから、その油だったかもしれない。醤油味である。段々に足しては、食べ続けた。どの野菜も家で作ったものだ。伊達巻とか、昆布巻きとかいうようなものを食べた記憶はない。黒豆はあった。年ごとに何かが加わるようになった。勤めに出たおじさん達がお土産を持って戻ってきてくれるからだ。送ってくれると言えば、必ず新巻き鮭があった。お弟子さんという北海道のお寺から毎年送られてくれた。その新巻きの頭で、三平汁のようなものを作る。これこそごちそうだった。私は両親と正月をしたことはなかった。両親は子供どころではないほど商売に追われていた。そのおかげで子供時代の大半を山梨の山奥で暮らすことができた。両親は、その貧しいおじいさんから、お金を借りなければならないほど、困窮していた。つらかったことだろう。子供を預け続けていたこともつらかったのかもしれない。

私は親から離れて辛いと思う事もなかったが、夜になって布団の中で泣いていたことは何度かある。朝起きればさっぱり忘れているのだが、なぜか夜泣いてしまう事があった。家に帰りたいと言ったことはない。帰れないという事が分かっていた。今思えば、親元を離れて山寺で自給自足で暮らせたことは、何と豊かなことであったか。鶏の世話と、風呂焚き、庭の草取りが分担だった。子供だから、すべて遊びのようなものだったが、草取りだけは辛かった思い出だ。お寺の周りをぐるりと草取りをするのだが、一まわり終わるともう、最初に取ったところは草が生えだしていた。そうするとおじいさんから、根から採らないからこういうことになると怒られる。そのうち除草剤というものが出来て、除草剤を蒔いた後、庭の鯉が全部浮いていたことがあった。強烈な毒性である。それでも草取りから解放された方を家族全員が喜んでいた。

けんちん汁は竈で炊いている。薪は暮れの内に十分に薪小屋に積み上げたから安心である。この薪割が、12月の最大の行事だ。一年分の燃料を積み上げる。2週間ぐらい、全力でやらなければ終わらない。この作業が楽しくて仕方がなかった。近場の山の年はまだいいのだが、離れた山から降ろさなければならない年は、運ぶ作業が危険なうえに手間取った。子供でもかなりの太さの切り株を担いで山を下った。そして薪割、栗虫。小学生ながら、一日中働いても何ともなかった。いまなら、児童労働で処罰されるのだろうか。部落中当たり前に子供は当てにされた労働力だった。それを悪いことだっとは思えない。むしろ私にはありがたいことだった。けんちん汁醤油の味付けだった。醤油も味噌も当たり前に自家製であった。プロパンが来て、薪割が無くなり。醤油も味噌も仕込まなくなった。豊かになり、いろいろのことを失った。今年はけんちん汁を正月には食べて見るとする。

 

 

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