デッサンの必要性
絵を描こうと思う時、まず基礎のデッサンをやってからという人がいる。その始め方では絵を間違う。絵を描きたいという思いを大事にすべきだ。デッサンがしたいという人はデッサンをやればいいのであり、絵が描きたいという人は絵を描けばいい。自分が絵を描き始めた時は幼稚園だ。その時のやり方でそのまま来た。別段教わったことはない。誰かに教わったという記憶がない。金沢大学でも、フランスの美術学校でも絵を描く技術を教えてくれたという事は、全くない。ただ絵を描く場所があっただけだ。カルチャーセンターよりも絵を教えてはいない。一番教わったと言えば、春日部洋先生である。しかし、春日部先生も私を指導したとは思っていなかったと思う。一緒に絵を描きに行っただけである。先生から学ぼうとすると、先生の作り出したものを受け売りすることになる。絵を描いて居て困ることは、身についてしまった受け売りを拭い去ることだ。絵は自分であること以外に何もない。
デッサンが必要という意味は、自分が描きたいと思うように、自由に描ける技術が必要という意味だろう。物を見てそっくりに描き写す必要があれば、そうやればいい。それはデッサンの一種であるが、コピー機デッサンである。コピー機の写し方とデッサンの見方は本質的に意味が違う。本当の意味のデッサンをするは、自分の物に対する解釈なのだ。物を見て、自分の頭の中で図にする置き換えの技術なのだ。自分の頭の中の見る訓練という方が近い。頭の中で絵を作る訓練が必要なのだ。だからデッサンが一定のレベルに達すると、観るという事がデッサンをするという事になる。木炭で画面に映し出す必要は小さな要素になる。ここまでが第一段階なのだろう。所が画面に映し出すコピー機技術をデッサンと勘違いしがちだ。初心者とは限らないが、頭の中に絵が無いにもかかわらず絵を描いている人がいる。そのうち何とかなるだろう、のス~ダラ方式では絵は描けない。絵は最初の一筆から、最後の仕上がりを縛るような意味が有るからだ。描き出した間違いが災いして、自分の絵の行方が定かにはならない。
天才といわれるような人は、初めから絵が頭の中に確定的にあるのだろう。それを移しているだけなのだ。頭の中に絵が無い人は、絵を描いても無駄かと言えばそうでもない。その人なりの絵は描ける。私絵画はそれでいいのだ。ただ、あくまで頭の中の絵を求めて描かねばならない。頭の中に人の作り出した絵が出てきてしまう事をどう乗り切るかである。頭の中の自分絵を育てるためにデッサンが必要な場合もある。人間は見ているようなきがしていても、ほとんど見ていない。見ているつもりを正すのがデッサンなのだ。見えていないことに気づくためにデッサンをして、眼を鍛える。ところが、多くの初心の人はコピー機になるためにデッサンをする。自分の眼で見るという事を忘れて、客観というか、一般的な薄味の見方で見るための眼に堕落するためのデッサンになる。それくらいならデッサンなど学ばない方が良いという事になる。だから、デッサンをやるのも良いのだが、頭の中の自分の観念と、行き来するような見え方を作り出すためのデッサンをやる必要がある。これは肝要である。
具体的には、自分が描きたいというものをデッサンしなければならない。くだらない石膏デッサンなど百害あって一利もない。受験の難しい芸大生はいわゆる石膏デッサンが上手なのだろうか。芸大生なら良い絵を描けるかと言えば、そんなことは全くない。私が絵だと思う、中川一政氏も独学である。須田剋太氏も独学である。鈴木信太郎氏も。マチスも、ボナールも、あのゴッホも、好きな画家は石膏デッサンなどやった人はいない。どうしてもデッサンをしたいという人は、自分が描きたいというものをデッサンすべきだ。私は時々樹をデッサンする。自然の樹木のなかには実に描きたくなるものがある。彼らは何百年もその土壌に根差し動かず。水を吸い上げ、太陽の光を受けて光合成をして、酸素を作り出している。落ち葉を大地に返し。そして最後には朽ちて大地に戻る。樹木の動かず立って、風のなかにある自然の姿こそデッサンしたくなる。