雨の日は写生日和
雨の日は写生日和である。晴耕雨読とはよく聞く言葉だが、晴耕雨描ということになる。晴雨にかかわらず畑をやるのはせいぜい週に一日であるから、晴れたから耕すという気分はない。最近は絵が描きたいのでほぼ連日絵を描いている。そして雨の日は写生日和という事になる。雨が降ると農作業に人来ないので、心置きなく畑の絵が描ける。農作業をされている人にしてみると、うさん臭い車に違いない。車の外で絵を描いているならまだ何をやっているのかわかるのだろうが、車が止まっているだけだ。絵を描くのによい場所に車を止める場所がある訳でもない。車をすれ違うための場所に車を止めて描くほかない。畑に来た人が車を止めている場所に止めて描かせてもらう場合もある。いずれにしても、描くことをお願いしようにも、その畑の人がどなたかもわからない。通りがかりの車の人に何をしているのかという顔で見られるぐらいである。こんなところで寝ているんじゃないと怒られたこともある。絵を描いているというのは畑をやる人にしてみれば寝ているようなものだ。
中井町から大井町の丘陵地帯には細い農道が巡っている。思わぬところに熱心な畑がある。篠窪、山田、赤田、古怒田、など言う集落である。田んぼがつく地名が多い。田んぼができる土地は少なく貴重だったのだろう。だから田んぼでなくちょっとした湿地があれば〇〇田とつけた場所も多い。遠く、西に富士山を望み、南に相模湾。北に丹沢東には渋沢丘陵が続く。高いところでも300メートルほどの山並みである。丘陵全体がかつては畑であった時代もある。眺めがいいからと言って眺めを描いているわけでもないので、近間の畑さえ見えれば十分である。向かいの山がかすんでいるような日でも絵は描ける。見えない方がいい場合がある。濡れ色というものが良い。等伯の霧の絵があるが、雨に煙る畑の色というものはいいものだ。枯草のはずがオレンジ色に燃えて見える。木の幹が濡れて黒々としてくると、木の地面に対する在り方がよく分かる。いつもは光で紛れていることに気づくことがいろいろある。畑の植物が雨を喜んでいる。
雨の方が姿を現すものがある。例えば銘木屋さんなどでは、板の木目を見るのに濡らしてみるという事をする。地面も濡れてわかることが山ほどある。土に混ざっているものが見えてくる。腐植の量は雨の方がわかる気がする。植物の土への馴染みも見える気がする。畑は満作に見えても無理をしているなというところもある。もちろんそれの方が良いのかもしれないが、私はそういう畑は描くことはない。雨の日にだけできる川もある。渋沢丘陵の谷は枯れ川である。私にとって雨は隠してしまうものではなく、その土地の実相を見せてくれる機会になっている。だから雨が降ると映画館に行きたくなるような感じで、景色を見に行くことになる。先日は春の大嵐で雷の中で絵を描いた。何も困ることはない雷は車の中にいれば安全である。むしろ落ち着いて絵を描いていた。
空けた窓からひっきりなしに雨が降り込んだが、座席が濡れても絵を描くことには問題がなかった。車は軽のタントなのだが、中判全紙の絵を描く位の空間は十分にある。中でゆっくりコーヒーを飲む。描いている方向以外はカーテンを閉めている。そうしないと安心して描けない。穴倉の中から、外を覗いている猫のような気分だ。時には見ている方向も閉めてしまい描いていることもある。よく見るためには見ないという事も必要になる。江の浦漁港を描き続けた中川一政氏のことが特別とは思えなくなった。同じ場所を5年も描いているのだが、飽きるという事は全くない。進歩も今のところないのだが、ここでやれるだけはやってみる気だ。他に自分の絵に近づける道がないと思う。これでダメだとしても、それはそれで仕方がないのでやりつくそうと考えている。もう少しで分かりかけるという気もする日はある。