英霊と謝罪

   

安倍氏によると、日本の若い世代には、謝罪の負担をかけてはならない。と主張している。と同時に英霊に対する哀悼の意は忘れてはならないと言い続けている。この意味を70年談話以来ずーと考えている。おじいちゃんがお国のために死んだことは忘れてならないが、おじいちゃんが外国の人に迷惑をかけたことには負担を感じる必要がない。こういうことを安倍氏は考えているのだろう。このことは国というものと、個人というものの関係のことである。たぶん世代が交代すれば関係はないという考えに徹するなら、英霊もどうでもいいし、謝罪もどうでもいいと言うことになる。人間は個人として、国家とは関係なく生きている。こういう考えもあるだろう。無政府主義というか、徹底した個人主義である。日本国をどう考えるかである。どこの国でもお国のために戦争をするわけだ。

はっきりとしているのは、戦争で死んだ英霊に対しては、未来永劫神としてまつろうと考えているということである。だから、国立戦没者墓苑でなく靖国神社という存在なのだ。東京大空襲で死んだ人は名前すらわからず、まとめて関東大震災の慰霊所に間借りして、遺骨として仮保管されているだけだそうだ。お国のために軍人として死んだ人と、空襲で死んだ人がこれほど差をつけられているのが、国というものが考えるお国のために死ねば神になり、外国から無意味に殺されれば、その他の骨扱いである。軍人の死をたたえたくなる気持ちの背景にあるものが、国家観である。一方で思い出したくもないのが、無残に殺された国民の悲惨である。日本国が正しい、素晴らしい国で、間違いなど国際関係の都合であり、、本当は外国の圧力で間違っただけだ。間違いというほどのことではなく、戦争に勝てば正義の戦いだったといえることだったのだ。これが本音ではないだろうか。

空襲で殺された人は国家としては関係のない無駄な人に位置づけられ、あまり思い出したくない。国に兵としてわかりやすく役に立った人だけが、大切だから神として祭ろうという考えである。この場合の国とは国威発揚する国であり、外国と対抗し勝ち抜く国のことである。言い切ってしまえば、神国日本のことである。中国や朝鮮とは、一段違う格別な国家という意識が隠されている。それは明治時代の富国強兵の中で、そういう教育がなされたということだ。列強の脅威の中で、日本国が追い込まれ、外国というものを国として対抗し、競争相手として必要以上に意識してきた。せざる得なかった、無理からぬ面があったという歴史認識は私も正しいと思う。そして、その意識がゆがんだ優越する指導意識にまでつながり、間違った戦争に突入することにもなった。

英霊を神としてまつる考えのほうも次の世代には、心理的害であろう。確かに、加害者としていつまでも謝罪しなければならない意識を持つということも、心理的害であろう。しかし、両者にある害は国というものを考えた時に、本質が異なる。英霊のほうは、またお前も英霊になることが素晴らしい生き方だという教えが組み込まれている。謝罪のほうは、加害者意識をもって生きるという、負担感と負い目に束縛される重さである。日本という国家の中に生きる人は等しく、この国という共同体を逃れることは出来ない。謝罪がもういいというなら、英霊ももういい。戦没者すべてを軍人と同様に慰霊することが大切なのだ。戦争に行かずとも、日本人のほとんどの人が国の選択に従い、自分の人生をなげうって戦争をしたのだ。国というものはそれだけの個人に対して権力を持っている。戦没者、戦死者は等しく国立墓苑で祭ればいい。謝罪は100年は必要である。安倍氏は70年談話を一人で練り上げて書いたという説があるが、そんなことはあってはならないし立派でも何でもない。

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