17回水彩人展出品作
水彩人展(9月25日~10月3日 東京都美術館 上野)に出す絵を描いている。壁に並べて描いている。この春、中井町の篠窪に通って描いたものである。篠窪にはは美しい里地里山風景がある。あの頃描いた絵を出してみたら、11枚あった。この中から選んで4枚出品することにした。すでに出す絵は決めた。中判全紙4枚である。篠窪に行って描いたのは、木の芽が噴出した3月ごろからだ。一日かけてその場で描いたものもあれば、繰り返して持って行ったものもある。描いていたころも、家に持ち帰っては、こんな状態で並べて描いていた。何かありそうな感じで、篠窪に通っていた。菜の花が咲いて、そのうち桜が咲いて、そして緑の色が濃くなってきて、終わりにした。緑が濃くなると、緑の変化が面白くなくなるのだ。なぜだろうか。
この絵は、出すのを止めがものだ。完成までゆかないからだ。今はだいぶ変わってきている。左側からの対角線を描いてみようとした。この絵は夕方に書いたものではなく、雨が降っている日だ。もう一つかけた感じがしないのが、左側にある、桜である。右側にある、Y型の木もおかしい。それでも何か可能性を感じている。来年の春に篠窪の現場に持っていてまた描いてみようと思っている。それで何か突然わかることもある。江面としておかしいのは見えているようになっていないからだ。この場所に見えたものが確かにあった以上そのことを、繰り返し描いてみたいと思う。見えたというのは、絵に書き留めたくなる何かなのだが。見えたものはこの場所にいたいというような空気なのかもしれない。
これも出さない絵だが、これは房総で描いた絵だ。房総の里山も面白いので並べてみている。房総で描きかけだった絵を続けて描いている。たぶん突き詰めることができないのではないかとこの絵は思っている。途中で挫折してしまう絵が何百枚もあるが、それも材料としてとってある。なぜ違うのかということも大切である。時に出して並べてみる。今回は篠窪の絵を描くのに、隣に並べておいた。一筆も描けなかったのだが、並べておくと篠窪の絵を描く何かになる。何を見ているのかを考えるうえで、参考になるからだ。この絵は中央のくぼ地の畑が、素晴らしい場所に見えた。まるで天国のようだというように素晴らしかった。その気持ちの良い感じを絵にしようとした。ところが周辺からその空気を壊してしまうものがある。しかしその邪魔をするものがあって中央のくぼ地が天国なのだから、そう考えてまた寝かしておくことにする。
出品作4枚は取り出して並べて描いてみているのたが、ほとんどそのまま手が入らない。時間があると絵の前に座っている。絵を前にしてあれこれ妄想しているわけだが、こういう時間が私の絵を描いているほとんどの時間だ。実際に画面に手を出すことは、一日描いていても、1時間ぐらいのものではないか。たいていは、1時間座っていて、5分ぐらい描くという調子だろう。実にはかどらないのだが、水彩画は余分なことをやれば、自分が見ている世界から遠ざかるということになるから、よほど結論が出ないと手が出せない。この描き継ぐ感じが、水彩画の醍醐味のようなものだ。これは現場に行っても似たようなもので、描きだせないまま帰ってくるなどよくある。それでもまた現場に写生に行くのだから、不思議なものだ。