いつまで謝罪をすべきか。
『あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。』 70年談話から
70年談話の評価は様々なようである。その意味でこの文章を書いた人は有能である。その中で、安倍氏の肉声を探すと、いつまでも謝罪するのでは若い世代にとって良くないということだ。安倍氏は過去の戦争に私は一切関係がないといっているわけだ。しかし、安倍氏が出したの総理大臣談話であり、日本国として戦争をしたという、重い歴史を背負っての敗戦70年目の談話である。いつまで謝罪をするのかと言えば、直接の被害者が生きている間は、謝罪をしなければならないと考える。おおむね100年はするべきではなかろうか。私も、戦後世代ではあるが、侵略戦争をした日本の過去の過ちは、自分のこととして受け止めている。中国に養鶏指導に行ってほしいといわれたときに、断れないことだと思ったのは、父が中国の最前線で7年間も兵隊だったということがある。父は徴兵され、学問の道を断ち切られ、無念の中国行きであっただろう。
しかし、私の気持ちとしては、父の思いを含めて中国には謝罪しなければならないという気持ちがある。申し訳ないことをしたという、加害意識である。安倍氏にはどうもないようだ。いつまでも謝罪を続けることによって、日本人が委縮するということがあるのかどうか。ここが今回の談話の唯一の肉声のような気がする。日本人が70年謝罪の気持ちをどこかに抱えていたために、軍事主義より、経済主義を選択したことになったと思っている。子供のころ誰もが口にしたのは、戦後になってアメリカの経済力の大きさを知って、あんな巨大な国と馬鹿な戦争をしたものだという、感想ばかりだった。日本は井の中の蛙で、実力を知らなかった、馬鹿な戦争をしたという反省である。敗戦したことで実力を自覚した。反省があったとしたら、今度は経済力をつけようという方向に日本全体が動いた。次の世代が、あるいは安倍世代以降の人たちが、妙な軍事力への願望を持つのは、実力不足の敗戦体験を他人事だと感じ始めたからではないか。
しかも、アメリカに従おうという意識が、最悪の方向ではないか。アメリカの属国になることを望む心情が、次の世代のどこから出てきたかである。しかも、安倍氏のように保守派の人たちがとくにアメリカに従属しようとすることが、不思議でならない。東洋の盟主になるとか言っていて、痛い目にあったことも忘れて、アメリカの虎の威を借りようということに何故なったのかである。戦後経済で負けまいと頑張った結果、経済大国と自覚するようになった。ところがどうもその頑張りも、韓国中国の経済発展で、誇りに傷がついた感じがある。何とか勝つために、アメリカ依存ななのではないか。つまり、日本国のアジアへの対抗心が今もって強く、国家としての自覚は脱亜入欧的な明治の尻尾を残している。そのために、普通であることができない。
不安が強いから対抗心が強まり、謝罪はもういいという意識になるのではないか。日本が日本である誇りを再生する必要がある。それは明治の克服ではなかろうか。安倍氏は明治の日露戦争の歴史を評価した。つまり、明治の帝国主義にあこがれがあるのだろう。日本人が日本人になるためには、日本の水土に立ち返るほかない。日本人であることを見つめなおし、普通に日本という国が存在することだ。欧米への妙な対抗心が、アメリカへの従属になっているのではないか。これは恥ずかしいことだ。アメリカの力の外交に依存しながら、中国に対抗しようなどという選択は、あってはならない。実に恥ずかしく感じられることなのだ。アメリカ依存を止めれば、中国と本当の意味での和解を模索するほかなくなる。中国を仮想敵国とする、不思議な国粋主義がいかに日本の歴史からすれば異常なものか。日中友好が、謝罪から始まるのは、決して次の世代が委縮するようなことではないはずだ。