三線文化の魅力 2

   

三線文化の続きを書く前に、那覇でりっかりっかの湯というところに行ったことを書いておく。好みのリラックスできる温泉であった。サウナが3種ある。水風呂もしっかりと16度(ただし、私の体感)その他3種もあってジェットバスも充実。そして天然温泉もある。地元の人がくつろいでいるところがいい。お風呂は裸の付き合いというくらいで、その地域に住む人の生の感覚が垣間見れる。那覇セントラルホテルというところが経営していて、そこに泊まる人はいつでも入れるとなっている。古いホテルで大分老朽化しているらしいが、温泉のほうもそれなりの歴史を感じるつくりになっている。しかし、施設的には十分充実しているのは、熱心な経営がされているということだろう。場所が国際通りからすぐ裏で、元の三越の裏である。那覇で長期滞在するなら、ここがいい。何しろ、1週間、1カ月の長期滞在が格安である。

銭湯を終わって、昨日は三線にたいする私の考えで、今日は話された方々の考えを書きとめておく。

3人の方が三線文化の座談会を行った。銘刈春政さんは、三線制作の第一人者である。比嘉康春さんは沖縄芸術大学学長。そして平田大一さんは沖縄県文化振興会理事長それぞれの角度から沖縄と三線の文化を語られていた。銘刈さんは作り手として、三親という楽器の持つ魅力の尽きない面白さ、微妙さを語られていた。三線の音色のわずかな変化が竿作りの中に潜んでいることを繰り返し語られていた。その形の美を位牌づくりで学んだといわれていたのが面白かった。そもそも大工をされていて、位牌も作っていたそうだ。位牌の下のハスの花を彫刻する時のバランスで、形の美を身につけたといわれていた。たまたま三線屋さんの家を作ったことをきっかけに、三線づくりの修行に入ることになったそうだ。見る目というものが重要で、良い物をたくさん見るということにかけているといわれていた。その見る目というのが、絵を描くみるという目の話とまるで同じだった。

比嘉さんは演奏家として三線を語られていた。何故三線が伴奏楽器であるのかということである。唄というものが沖縄文化においていかに重要であるかを、歴史的に語られた。何故古典音楽が武士の唄うものになったのかである。そこから三線がより単純な音の中に、深い音色を求めることになったかを語らた。西洋音楽の音率とは違い、唄に伴うことで変化すので、他の人の伴奏で歌うということは極めて難しいことになると、ここが面白い。民謡でも唄三線ということが言われている。この方の声が素晴らしい。沖縄の方の唄の素晴らしさは、普段しゃべられている声で、そのまま歌われる。その素朴が、実は深い。ありのままであるから、その人が唄になる。その人がつまらなければ、唄も伝わらない。その人間の大きさのような、深さのようなものが唄になっていた。

平田さんは笛の演奏家でもある。沖縄の笛もなかなか良いものである。くるちの森100年プロジェクトをやられている。宮沢和史氏が発起人である。三線を作る材としての黒檀の木を植えててゆく活動である。すでに3000本が植えられたそうだ。100年先に三線の竿になるためには、今の小学生のその子供にまで伝えてゆく必要があるということで、子供たちへの普及活動を行っている。この活動は読谷村で行っているそうだ。10月18日には育樹祭があるというので、一度行ってみたいものである。稲刈りのころで無理かな。また平田さんは赤いんこの演劇の脚本を書かれているそうだ。沖縄を統一した尚巴志王と赤いんこの物語のようだ。赤いんこは三線をもたらした神様である。三線を琉球に広めた伝説の人である。文化で沖縄を統一してゆくという、物語を語られた。まさに私が考えている、天皇家の本来の姿、を意味しているので、少し驚いた。国というものは、武力でできているのでなく、文で納めるものなのだ。

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